OH! LA! HO! Beer

by Kumagai Jinya



長野県にはクラフトビア醸造所が沢山ある。47都道府県の中で4番目に大きい面積を持っていることを考えると、そんなに不思議なことではないかもしれない。長野県は南北に長く、北信、中信、南信、東信の4つの地域に大きく分けられ、それぞれ気候が微妙に違う。上田市、東御市、小諸市、佐久市などがある東信地域は、比較的雨量が少なく、日射量が多く、風が少ないという、ホップ栽培に適した気候の地域である。実際、県内で開発されたホップの品種「信州早生」の一大産地でもあった。この東信地域の東御市にあるクラフトビア醸造所が、OH! LA! HO(オラホ)ビールである。

1994年7月1日に第三セクターとして設立された「株式会社東部町振興公社」が、オラホビールの母体だ。東部町の一角に誕生し、設立当初は日帰り温泉施設・湯楽里館の営業が事業の中心だったが、その後ビールの製造と販売の事業を始めることを検討した。長野県で有名な「南信州ビール株式会社」が設立された20日後の1996年7月21日に、「東部町地麦酒倶楽部」として、現在に続くオラホビールの製造・販売が始まった。2004年に東部町と北御牧村が合併し、東御市が誕生すると「信州東御市振興公社」と名前を変えた。

現 専務取締役の小林亮二が、初代醸造長を務めた。小林は東京農業大学で醸造を学んでおり、ビールづくりのプロジェクトが立ち上がり、会社が人材募集を行っていることを知ったときに、「自分の醸造技術を役立てられるのではないか」と応募した。入社後、米国のシアトルや、アサヒビール社のクラフトビール部門である隅田川ブルーイングで研修を重ね経験を積んだ。そしてオープンから3カ月間は、米国人技術指導者が付いた。南信州ビールで取り上げたエド・トリンガーリの弟子に当たる人物だ。
当初は、ゴールデンエール、アンバーエール、ポーターの3種類でスタートした。滑り出しから順調で、東部町地麦酒倶楽部は連日賑わった。現在のオラホビールに併設しているレストランの総括支配人 滝澤謙一郎は、当時、レストランのホールスタッフとして働いていた。「開店からラストオーダーの夜10時まで、途切れることなくビールを注いでいないと間に合わないほどの盛況ぶりでした」。翌年1997年の1月からは1リットル瓶、5月からは缶での販売を始め、年間のビール製造量は100キロリットルを超えた。遠く岩手からテレビ局の取材が来るなど、人気は過熱した。しかし翌年、翌々年と生産量は減っていき、そして数年間は厳しい時期が続くこととなった。

国内のクラフトビア製造量が最低の数値を記録したのは、2003年だったと言われている。その翌年に入社したのが、現在、醸造長を務めている山越卓だ。小林とともに二人でビールづくりを続けていた。2006年に小林が醸造長を退き、山越が新たに醸造長となった。残念ながら、この年がオラホにとって最低のビール製造量となってしまった。ビール事業は行き詰まり、現状を打破するための策を何も打てないでいた。

一方で、オラホビールはアジアビアカップ、インターナショナルコンペティションなどのコンペで1999年以降、毎年受賞を重ねていた。小林や山越がつくるビールの品質は保証されていたのである。しかし売り上げにつながらなかった。「第三セクターのお土産ビール」と思われていた。

そのような状況を好転させるべく入社してきたのが、戸塚正城だ。戸塚はまず「お客さんときちんと向き合う」ことを重視した。「本当においしいビールを飲んでいるお客さんの目は輝いている。そうした姿を直接見て、改めて自分たちがどんなビールをつくるか考えるべきだと思ったのです」。そこで様々なイベントに積極的に出展して、一人一人、お客に魅力を説明していった。

ビールメーカーにとってお客とは当然、ビールを購入する消費者だけを指すのではない。缶やボトルを販売してくれる酒販店も入る。そうしたお客から厳しい声をぶつけられることもあった。長野県内で様々な種類のビールを扱う店の担当者から「ビールづくりをやる気があるのか」と言われた。しかし、それでも改善に努め、最終的にその担当者から「良くなったね」と言われるようになった。

お客と向き合い、ビールづくりを改善していくにつれ、徐々にビアパブからの樽の注文が増えていった。「店主がおいしいと認めてくれたことに加え、私たちのビールを好きになってくれたお客さんが、店主を口説き落としたなんていう話も聞いたことがあります」。そうして現在、製造量は増えている。

その秘訣は「チーム力」だとオラホのスタッフは口をそろえる。「例えば新しいビールのアイデアは、誰が持ってきてもいいんです。持ってきたネタをみんなで製品にできるようにまとめあげていく」。現在は営業担当だが、前職で醸造経験がある戸塚がビールのレシピを書くことだってある。そうしたスピリットは彼らのワークシャツに刻まれている「Brew Crew」「Brewing Team」という言葉に象徴されている。

「どん底にあるときは、まわり道をする余裕がない。最短ルートを行かねばなりません。そのためには、みんなで作業を分担して取り掛かる。何をすべきかを判断するためには、情報を集めなければなりません」と戸塚は強調する。集められる情報で最も重要なのはお客の声である。

 お客の声に耳を傾け、製品づくりに役立てる。ものづくりの世界では当たり前のことだ。日本のクラフトビア醸造所でも当然、そうしているところが多いだろう。しかし、これほどはっきりと聴いたのは、私はオラホが初めてだった。一度どん底を味わって、それを打破するために基本にもう一度立ち直ってきたからこそ発せられる気概を感じた。

これはほかの多くの醸造所でもそうだろうが、今年の醸造ペースは昨年を大きく上回っている。オラホでは昨年の夏以降、2、3割増を続けている。特に、樽の出荷が増えている。今年4月の樽の出荷量は、去年同月と比べると3割以上の伸びだ。さらに、限定醸造も定期的に行っている。ビアパブに興味を持ってもらうために、これは重要だと言う。

そうして現在、レギュラーの液種は六つに増えた。「売れなくて悩むこともありましたが、現在は高まる需要に応えるべく質と量を維持するのに悩むことがあります」と山越は笑う。

ビール事業を展開している第三セクターの例は少なくないが、「その土地に行った記念に飲む、味は二の次の観光地ビール」と思われがちだ。確かにその通りだという所もあるだろう。しかし、オラホビールのすっきりとした後味の良さは、現地を訪ねて体験する価値があると思う。

さらに、第三セクターは単純に利益を挙げていくだけでは(これはこれで大変なことであるが)いけないのである。地域振興に役立たなければならないし、地域住民が集まれる場所も提供しなければならない。ビールづくりも地域の人たちに「おいしい」と喜んでもらえなければ、存続の危機を迎えることになる。一般の企業とはまた違った責任を負ってビールをつくっているのである。例えばドイツでは「その街だけで飲める、その街らしいビール」があるが、それと同様に、日本でも街独自のビールを持つことの実現に、役立つのではないか。 それが、OH! LA! HO!

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