ハーディウッドはバージニア州リッチモンドを変えた。このブルワリーは州都、そして州全域に歓迎される存在だ。その独自性はバージニア州と密接に結びついてもいる。それは、多くの小規模ブルワリーが望むであろう象徴的な関係だ。多くのブルワリーもその地域性を表しているが、ハーディウッドのように、日本やその他諸外国に輸出しながら、国内外でそれを伝えきれるブルワリーはほぼ皆無である。しかし、その関係性は実現していなかったかもしれない。創業者のエリック・マッケイとパトリック・マータウは、アメリカ南東部のほかの町での開業を望んでいた。リッチモンドの魅力と将来の可能性が彼らの心を捉えたのだ。
マッケイが2008年ニューヨークでアルコール飲料の大手販売代理店に勤めていたとき、リッチモンドの部署で人材の募集がかかった。彼と、彼の幼馴染で自家醸造仲間のマータウは、自分たちのブルワリー開業のための事業計画を練っているところで、リッチモンド南部の町を候補地として真剣に検討していた。マッケイはリッチモンドの新ポストに配属されなかったが、当地への転勤希望を出した。彼と妻は育児中であり、彼ら双方の親戚が住んでいるリッチモンドは、個人的に魅力的だったのだ。リッチモンドの魅力はすぐに納得のいくものとなった。
「私はリッチモンドがブルワリー開業により適していることにすぐに気付きました。当時、町には、その地域でクラフトブルワリーのゴッドファーザー的存在『レジェンド』が一軒あるだけでした。一方で、リッチモンドの一人当たりの個人経営レストラン数は国内最多でした。そして、ダウンタウンを流れる急流のジェームズ川と全域単線自転車コースがあり、川では、スタンドアップパドルボード、カヤック、ラフティングのすべてが楽しめます。リッチモンドには冒険的要素のある環境がそろっているのです。クラフトビールで先行しているオレゴン州ポートランドには、似たような文化構造が見られます。町に、個人経営のコーヒーショップやレストランがたくさんあり、そこにヒップスター文化があれば、新しいものを試すことにオープンな人々が集まってくるのです」
マータウによれば、マッケイはマータウの焦点を難なく方向転換させたそうだ。マータウはリッチモンドにいる友人を訪ね、当時、レジェンド、メコン、キャピタルエールハウス(数十のタップがあるバー)を取り巻いていた流行をチェックした。メコンについては、「非常においしい食べ物、驚くべきおもてなしの感覚、すばらしいビールリスト」があったと振り返る。さらに、ニューヨークのクラフトビール文化に築かれつつあった高飛車な雰囲気とは対照的に、リッチモンドでは歓迎されていると感じた。州内のほかのブルワリーが十分に提供しきれていない、斬新なスタイルのビールに人々は飢えている、と彼らは感じた。
「ここに拠点を置くことを決める際に、アン・ブイとメコン、そしてその他すべてのレストランから大いに影響を受けました。私たちは倉庫物件を探し、うまくいきそうな場所を見つけ、賃貸契約に署名をし、醸造設備の頭金を払いました。そのあとは知っての通りです」とマッケイは振り返る。
すでに土壌は整っていた。まず第一に、マータウは醸造の職業訓練を受けていた。そして彼は、興味深い家系に生まれていた。
「マッケイと私がホームブルーイングを始めてから、高祖父の追悼記事を両親の屋根裏部屋で発見しました。彼は1890年にドイツからアメリカに渡り、(マサチューセッツにあり、だいぶ前に閉店した)スプリングフィールドブルワリーでブルワーをしていました。その後、2010年に私はホームブルーイングをさらに上のレベルに持っていくことを決意し、ブルーイングアカデミーのマスターブルーイングプログラムに登録しました。シカゴのシーベル醸造学研究所で学んだあと、ドイツのドゥーメンズ醸造学専門校に行き、そこでも学ぶのです。シカゴにいる叔母は、私の曽祖父、そして彼女の叔父もシーベルに通っていたと言いました。シーベルには1900年からの全クラスの集合写真があるので、そこに行った際に調べてみました。私が座っている席から2フィート離れた壁に、1908年の曽祖父のクラス写真が飾ってあるのを見つけました。少し離れたところには、叔父のクラス写真もありました。興奮しました。もし私が大学在学中に10年後には醸造をすることになるだろうと言われていたら、信じなかったでしょう。家族の伝統を継承するのは楽しいものです」
業界での経験、醸造の知識、家系はさておき、マッケイとマータウは事業をうまく舵取りしなければならなかった。彼らは2011年に創業し、リッチモンドでクラフトビール熱が高まるという読みは正しかった。そして彼らは自分たちの直感を信じた。手軽に試せるスタイルを醸造するのではなく、独創的な道を進んだ。彼らの最大の売りは、当時おそらく多くの人は知らなかったであろうベルジャンブロンドエールだった。
「地元でつくられたものであり、一風変わっていたので、人々はそれを試しました。極端になりすぎず人々の味覚に挑戦することで、私たちがしたかったことを成し遂げました」とマッケイは説明する。
「私たちには人々が魅かれるスタイルがわかりました。リッチモンドのすべてのレストランがコンフォートフード(南部の標準料理)ではなく、より実験的な料理を提供していたことから、私たちは馴染みのないスタイルのビールをつくることに自信がありました。人々がそれらにオープンであることを確信していました」とマータウは付け加える。
原料は、ハーディウッドの文化と哲学で重要な位置を占める。二人はすぐに、地元の農家に連絡を取った。その決断は彼らをより有名にする誘因にもなった。
「私たちは、ハワイアン白生姜の栽培に非常に熱心な小規模農家から仕入れました。その後、養蜂家に会い、ジンジャーブレッドスタウトのアイデアが浮かびました。二人の栽培者と原料によってその発想が生まれたのです」
ジンジャーブレッドは何世紀にもわたり世界各国で焼かれてきたが、アメリカ文化にとって特別なものだ。米国の最初の料理の本(1796年)にはいくつかのレシピが載っており、ジンジャーブレッドクッキーのシーズンであるクリスマスと関連付けられてきた。多くの人にとって、休暇の思い出を呼び起こす懐かしいごちそうだ。意外なことに、ハーディウッドより前に、商業規模で似たようなフレーバーのビールが醸造されたことはなかった。
最初にジンジャーブレッドスタウトがリリースされたとき、ブルワリーに訪れた人は7~8人だけだった。当時タップルームはなく、法律によって少量のサンプルを注ぐことしかできなかった。しかしその後、ワールドビアカップでメダルを獲得し、その数か月後には、米国のビールメディア最大プラットフォームの一つである『Beer Advocate』が、希少なパーフェクトスコア100を与えた。その翌年、寒さの中、歩道には1500人の列ができた。アメリカ中のビールファンたちは、もしボトルを見つけたら買い置きするように州内の友人に頼み、その噂は広まり続けている。ハーディウッドは数年にわたり、バーボン樽熟成を含むバリエーションもリリースしているが、最初のレシピは変えていない。
「地元産のはちみつや生姜への私たちのこだわりだけではなく、バニラが3000%値上がりしたことから、醸造にかかる費用が異常に高騰しています。それでも、ハーディウッドについて聞いたり、世界中で期待している人々へのインパクトは非常に大きいです」とマッケイは話す。
当時、バージニア州のブルワリーがタップルームを所有することは合法ではなかった。しかし、ハーディウッドはほかの影響力のあるブルワリーと結託し、地方自治体に対してロビー活動を行った。その努力は実を結び、2012年夏に法律が改正された。ハーディウッドはタップルームを開店した最初のブルワリーとなり、その日は偶然にもアメリカ独立記念日の7月4日だった。何千人もの人々が訪れ、その月初めて単月黒字となり、タップルームの重要性を明示するものになった。
最初のブルワリーと20バレルのブルーハウスとは別に、ハーディウッドは建物を購入し、大きなタップルームに改装した。事業の成功と州からの補助金で、2015年には町の西部の僻地に施設を建設した。この豪華な5000平方フィートのビルは、24エーカーの土地に立地し、大規模な60バレルのブルーハウスを構える。2017年2月、同社は、山岳地西部へ車で1時間の歴史的な町シャーロッツビルに、タップルームと研究開発醸造施設を開設した。そこでは、新しいレシピに関するフィードバックを迅速に得て、それがいいものであれば、20バレルのブルーハウスに規模を拡張する。もし良い評判が続けば、大きな60バレルの施設に移し、将来的に拡販される。
事業経営は人間関係を傷つけることもある。彼ら二人は幼少時代からの友人だが、その友情はストレスや挑戦をどうやってうまく切り抜けてきたのだろうか。
「いつでもコミュニケーションできる状態にしておくことが重要です」とマッケイは言う。「どんな共同経営にも意見の相違はつきものです。この業界では、何が起こってもその後にビールを一緒に飲めるのが良い点です。そして、私たちのように、お互いを長く知っていることも助けにもなります。私たちは兄弟に見られるような本質的な信頼感を共有しています」
マッケイが説明している間、マータウは笑顔でうなずく。
今、バージニア州のブルワリーの数は増えたが、未だに好機もある。そんな中、なぜ日本に輸出するのか。販売・マーケティング部門副社長(かつ最初の投資家)であるリチャード・ミラーは、国際販売・開発分野で豊富な経験があり、シンガポールと香港にも数年間住んでいたという。彼は、日本により成熟したビール市場の可能性を見出し、パートナーを探していた。クラフトビール輸入業者ビア・キャッツのグレイソン・シェパードはリッチモンド出身である。それは巡り合わせのようだった。幸い、ハーディウッドはアメリカ東海岸の最大積荷港の一つに近く、日本への出荷は費用的に採算が合うものだ。
日本には、ハーディウッドの選りすぐりの商品ラインが入ってくる。「バージニアルーツ」シリーズは、地元産の材料を使用し、地域性を示している。ビールにはストーリーがあり、マッケイ、マータウ、ミラーは日本のビールファンに関心を持ってもらえることを期待している。材料には、地元で収穫されたラズベリー、ブラックベリー、パンプキン、はちみつが含まれている。さらにハーディウッドには、その適した気候のおかげで、米国東海岸最大級の木樽熟成プログラムがある。
「樽が乾かない適度の湿気がありますが、樽が『呼吸』をするために、つまりビールを吸い込み木材にしみ込んだ液体を排出するために十分な温度変化もあります。本当に複雑でおいしいビールが出来上がります」とマータウは説明する。
リッチモンドの有名な料理人とレストランは、バージニア州都の特色を全国的に賛美される現象に変えた。その過程で、ハーディウッドをも町に呼び込んだ。ハーディウッドはそれを液体の領域まで拡張したようだ。日本は、遠方からのその味わいを満喫できる幸運な場所の一つである。それらは伝わるのだろうか。良質なものは伝わるのだ。
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