「うちのビールを東京に出すなんて夢のまた夢の夢。宇宙に行くような感覚でした。下関で売ることになったときでさえ、海外に売るような感覚でしたからね」
まだ無名だった頃の心境を語ってくれたのは、鳴滝高原ブルワリーを運営する山口地ビール株式会社の代表取締役・中川弘文。彼の口から漏れてくる言葉の端々に、どこかのんびりとした気質を感じた。筆者自身も同県下関市の出身で、よく母が山口市の人は車の運転がゆっくりだ、と言っていたのを思い出した。土地柄なのかもしれない。どこかマイペースでのんびりとした空気がこのブルワリーには漂っている。
山口市内の中心部から車で30分ほど離れた山沿いに、鳴滝という滝が見える。そのすぐ麓にブルワリーレストランを構える山口地ビールは、地下から汲み上げられた天然水仕込みのビールを提供する。1994年の地ビール解禁後の最初の地ビールブームで立ち上がり、2000年代前半の低迷期を生き残ったメーカーの一つである。醸造開始から20年ほど経つが、全国にその名が知れ渡ったのは、ほんの数年前のことだ。これまで無名だった山口地ビールが、どうして最近になって注目を浴び出したのか話を聞いた。
さかのぼること25年以上前、まだ中川が学生だった頃のこと。実家が営む酒屋を手伝うこともあった中川は、「海外のビールはたくさん種類があるのに、日本のビールは1種類しかない。どこのメーカーのものを飲んでも違いがよくわからないし、なんだかおかしい」と、店に並ぶビールに違和感を感じていた。それから数年後、酒税法が改正されたというニュースを耳にした。もちろん興味が湧いたが、彼にはビールの知識もなければ、ましてやつくり方なんて知るはずもない。そこで、まずはいち早く開業していた醸造所を見て回ってみた。適切な訓練を受ければ自分にもビールづくりができるということが分かったので、ドイツとチェコに渡って、3カ月ほどビールづくりを学んだ。
帰国後、醸造所設立の準備に取りかかるも、中川を待ち受けていたのは近隣住民からの反対だった。自然豊かな土地に工場が建てられることを懸念する人が多かったのだ。「ビール工場」と聞き、大規模な工場が建設されるものだと勘違いしていたのかもしれない。そういった住民への説得や実際の建設工事など、約1年半の準備期間を経て、1997年ついにブルワリーレストラン「レストラン サン・レミ・ド・プロヴァンス」のオープンを迎えた。住民が想像していたであろう工場からずいぶんとかけ離れた、自然の中に溶け込んだ美しい造りの建物は、名前の由来である南フランス・プロヴァンス地方の風景を彷彿させる。
立ち上げの中心メンバーは、中川の他に、従兄弟の山縣義弘と中川の兄の山本雅彦の三人。そしてもう一人、知る人ぞ知る菊池明が関わっている。菊池は日本のクラフトブルワリー第1号であるエチゴビールの立ち上げメンバーの一人だ。その後いくつかの醸造所の立ち上げを支援しているが、山口地ビールにも関わってくれたのだった。
1997年の開業直後、思いのほか併設レストランの方が繁盛して、中川にとってビールづくりよりレストラン事業の方がメインになっていた。一方で山縣と山本は、レストランのキッチンやホールを手伝いながら、菊池にビールづくりを習っていた。
当時、つくっていたビールは全てレストランで消費されていたが、3年ほど経つとビールがめっきり出なくなってしまい、ビール事業は低迷。仕込みの間隔が開きすぎて「ビールってどうやってつくるんじゃったかのう?」という、耳を疑いたくなるような会話が、山縣と山本の間で交わされていたという。その状況から抜け出すべく、色々な策を練りつつもビール業の低迷は続いていた。
そんな中、どうしてもレストランで式を挙げたいというお客の声に応えたのがきっかけとなり、ウェディング事業を開始することとなる。そこにブライダルプロデュース会社が目を付け、次第に年間60組を手がけるほどの立派な事業へと成長していった。
レストランとウェディングで事業を支える時期が10年以上続いていたが、そんな山口地ビールにも転機が訪れる。2014年7月のことだ。ウェディング事業の拡張が頭の中の9割を占めていた中川は、ウェディングの展示会に出席するため上京した。夜は予定が入っていなかったため、噂で聞いていた両国の麦酒倶楽部ポパイにふと立ち寄ってみた。「ビール専門店だから海外のビールばかりを置いているのだろうと思っていたところ、日本の地ビールが50〜60種類くらいあって本当にたまげました」。それもそのはず、それまで同業他社との交流もほとんどなかった山口地ビールは、日本のクラフトビール事情の情報に疎く、ポパイで目にしたものはまさしく「目からウロコ」だったのだ。まさかこんなにもたくさんのクラフトビールが日本にあるとは夢にも思わなかった。中川は、次の週には山縣と山本を同行し、再びポパイを訪れる。そのまた次の週も含め、興奮のあまり3週間連続で通いつめ、片っ端から日本のビールを試したという。
このあたりから山口地ビールに変化が見られるようになった。まずクラフトビア・アソシエーション(日本地ビール協会)が共催する全てのビアフェスに参加することを決め、第1弾として2014年9月にビアフェス横浜に初めて出店した。ビールサーバーとのぼり1本で挑んだそのイベントでは、目立たず、山口地ビールの名を知る人も少なかったため、お客の出足もまばらだった。そのイベントの直後、中川、山縣、山本の三人は栃木県のろまんちっく村で開催された勉強会に参加した。そこには日本全国から50人ほどのブルワーが集まっており、彼らはそこで出会った人たちに積極的にアプローチして、醸造技術を教えてもらった。以降、山口地ビールの品質を少しずつ改善していくことができ、先の勉強会に参加したことが飛躍への第一歩となった。
山縣の後を継いで醸造責任者に就任した山本は、今では山口地ビールのお家芸ともいえるヴァイツェンの現行レシピが完成するまでの過程を次のように語ってくれた。「とにかくたくさん聞いて、良いところだけを取り入れました。つくり方も酵母も全部変えました。それまではヴァイツェンが一番売れ行きが悪かったので不評だということは分かっていましたが、どこをどう直せばいいのか分からなかったのです。勉強不足だと思った私は社長にお願いし、他県のブルワーさんの知識を吸収する機会をもらいました。この業界はみなさん包み隠さず教えてくれるので本当に感謝しています」
山口地ビールのヴァイツェンはこのスタイル独特のフルーティーな香りが特徴的だ。口に含むと甘酸っぱさが感じられ、新鮮なバナナの特徴が一貫している。味わいがしっかりしていながら後味はすっきり。山口地ビールの目指す、何杯でも飲みたいと思えるビールに、見事に仕上がっている。レストランを併設しているということもあり、必然的につくるビールが食事と一緒に楽しめる。
彼らの定番銘柄はヴァイツェンの他に、ペールエール、ピルスナー、そしてスタウトがある。ペールエールは濁りがあり、グレープフルーツのような柑橘類の香り。口にふくむと強めの苦味が広がり、若干甘味も感じられる。しっかりとしたボディーがあり、飲みごたえがある。ピルスナーは、ボヘミアンピルスナーに近く、豊かさを演出するダイアセチルがある。苦味は控えめで、甘味の方が強いため、へレスのようでもある。スタウトはチョコレートの香りが強く、穏やかな甘味と、それをわずかに上回る苦味がある。はっきりした香りを楽しめつつ、飲み疲れせずに飲み干せる。そして、これから定番となる予定のIPAは、アルコール度数5%と低めだが、苦味は十分。銅色の見た目に沿ったカラメルの味わいと甘味もある。
また数年前に発泡酒免許も取得したため、今後は、ナツミカンやゆずきち(カボスやスダチの仲間)といった地元の農産物を使用した「地発泡酒」(フルーツビール)の取り組みも強化していく。今回飲むことができた三つの銘柄を紹介する。まず、周防大島みかんエールは、スパイシーな柑橘類の皮を感じさせる香り。口に含むと果汁の味わいが広がり、甘味、苦味、フルーティーな香りのバランスが良い。萩夏みかんエールは、かなり濁っており、しっかりとした夏みかんの果汁の香りに、皮から得られる苦味がアクセントとなっている。ももヴァイツェンは、はっきりとした桃の香りが特徴で、あまり濁っていないこともあり、ヴァイツェンらしい香りは控えめだった。
さて、話を山口地ビールのストーリーに戻そう。ポパイ訪問をきっかけに外の世界を知った山口地ビールは、クラフトビール、そして山口地ビールの、無限大に広がる可能性を求めて進み始めた。そして2015年、ついに「夢のまた夢の夢」の存在であった東京のポパイが、山口地ビールのヴァイツェンを置いてくれることとなる。その噂が広がり、都内のビアバーに山口地ビールの名は少しずつ知れ渡っていった。
また同じ年、東京に出荷を始めて間もない頃、ビアフェスが台湾の台北でも開催されることを聞きつけ、思い切って出店してみると、思いのほか現地の人たちからの評判が良かった。山口地ビールの飲みやすさが台湾人の嗜好にマッチしたのだ。ビールのサービングが間に合わないほどで、常に15人くらいの列ができていたという。そこからトントン拍子で台湾への輸出が決まった。この台湾での成功は確実に山口地ビールの自信へと繋がった。
2015年は飛躍の年となり、出荷量もここから右肩上がりに伸びている。製造量は3年連続で30パーセント増を記録。2018年は約180キロリットルの製造が見込まれ、5年以内には300キロリットルを目標にしているという。これまでの150キロリットル規模の醸造設備では生産が間に合わなくなったため、2016年に500キロリットルにまで醸造設備を拡張した。同時に試作や限定醸造をするためのパイロット設備も完備され、今後はコラボレーションや限定醸造も行っていく予定である。
製造量が増えるということは、品質管理がますます重要になってくることは言うまでもない。これまで、醸造責任者とレストランの支配人(最近副社長に就任)という両方の肩書を持っていた山本だけでは手が回らくなってきたため、2017年1月に長田崚がブルワーとして入社した。長田は語学留学でカナダのヴィクトリアに半年滞在した際にクラフトビールの奥深さに心を奪われ、ビールづくりの世界に飛び込んだ。今後は山本の右腕となり、山口地ビールの品質の安定と向上に努めたい、と熱い思いをに語ってくれた。
また長田が入る数年前、事業の兆しが見えて忙しくなりだした頃に、大空和央が入社している。営業主任の彼は、山口地ビールの営業はもちろん、出荷や広報など何でもこなすやり手だ。本来の仕事の傍ら、地元でクラフトビールを根付かせるべく、山口市内で開催される湯田温泉地ビール倶楽部というビールイベントの実行委員会副委員長を務めている。2016年の初回は中国地方のブルワリーを招き、来場は1000人を超える盛況ぶりだった(山口市の人口とクラフトビールの認知度を考えると、これはかなりの快挙だ)。2回目には九州のブルワリーも招き(中国・九州のブルワリー合計7社が参加)、来場数もさらに伸びた。
この地ではこうした地道な活動を根気強く続ける必要がある。いつしか山口市にクラフトビールが根付き、山口市(そして県内)にクラフトビアバーが誕生する日が、同県出身である筆者も待ち遠しい。
現在、出荷量は県内が2割(全て瓶で、主にお土産ビールとしてお土産売場やスーパーマーケットで販売されている)、県外が7割、海外が1割を占めている。オーストラリアへの輸出が定着してきており、取材時は米国への輸出の最終調整を行っているところだった。今後、米国への出荷量を全体の1割くらいまで伸ばしたい、と中川は意気込みを語ってくれた。もちろん、ただ輸出するだけでなく、良い評価も期待しているようだ。山口地ビールの味を確立させ、世界中の人がここのビールを飲みにくるようなブルワリーを目指しているという。
山口地ビールは、良い意味でまだ発展途上だと言える。県外への出荷が7割を占めるといっても取り扱っているビアバーはごく一部で、なかなかお目にかかることが難しいのが現状だ。品質の安定、僻地であるがゆえの難題、県内のクラフトビール市場の底上げなど、まだまだ乗り越えるべき壁は山ほどある。その困難をいかにして乗り越えるかを試行錯誤し、何か新しい、革新的なことをしてくれるのではないかと、筆者は期待している。中川が「宇宙」と例えた東京や大阪といった都市部での活躍、そして米国での成功を応援しつつ、今後の山口地ビールの動向を見守りたい。
(Hanamoto Misato)
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