興味をそそる名を持つTMD1874は、2016年12月2日に横浜近郊にオープンした。このブルーパブは少し変わっている。ワインや日本酒など、豊富なラインナップを揃えた酒販店でもあるのだ。上質な酒を好む人にとって、ここはさながら天国のような場所だ。そしてこの一体型のコンセプトは、横浜市出身の加藤修一によって生み出された。
加藤は、横浜の北西に位置する十日市場で曾曾祖父が創業した酒屋「株式会社坂口屋」の5代目代表取締役である。加藤が築30年のビルをリフォームするか、それとも改築するかを考えたとき、酒を店舗で購入するだけでなく、その場所でつくったビールが飲めるような店を思い描いていた。複数の免許の取得や工事で時間がかかったが、二年後にようやく計画が実を結んだ。
このブルーパブ兼小売店の名前にある「TDM」は、十日市場を直訳した「Ten Day Market」の頭文字からとっている。その昔、この地域では毎月10日に市場が開かれていて、当時の呼び名が定着したのだ。「1874」は、加藤の曾曾祖父が創業した年を表す。名前の由来を知ると、とてもうまいネーミングだと感じる。
新しい事業に備えるため、加藤はアドバイスを求めて日本国内のいくつかのブルワリーを訪れ、またクラフトビールについて可能な限り知識をつけるため、米国オレゴン州のポートランドに出向いた。彼は、そこで味わったビールは特にホップが利いていると感じ、2杯目以降も同じように飲めるのか疑問を抱いた。彼個人としてはバランスを求めていた。多忙な社長として、ビール醸造に関して学ぶのと同時にビールを自分でつくることは、単純に実行不可能であった。似た味覚を持つ経験豊富なブルワーが必要だった。
2016年の夏、加藤が探し求めていた人物、ジョージ・ジュニパーの紹介を受けた。ビール輸入代理店であるビアキャッツのトッド・スティーブンスが引き合わせてくれたのである。スティーブンスは以前、加藤の娘と働いたことがあり、加藤ともお互いをよく知る間柄になっていた。スティーブンスは加藤とジュニパーの状況を知っていて、二人を引き合わせることにした。
ジュニパーは加藤と最初から考えが一致していたと言う。彼が醸造長の職探しに苦労していた当時、面接後にかなりの好感を持てたのはその時が初めてだったそうだ。ジュニパーが加藤に紹介したビールは、まさに加藤が求めていたものであった。2016年11月、加藤はジュニパーを迎え入れ、その一週間後にタンクが到着した。
ジュニパーはブルワーになる運命にあった。若くしてそれに気づき、決して諦めずにいた。彼の醸造経験は、ビールの世界ではなく、フルーツワインから始まった。人口1500人程度の小さな英国の田舎町、ウィスバラ・グリーンに住んでいたジュニパーは、たくさんの果物と花に囲まれて育った。13歳の時、彼の母親はエルダーフラワーシャンパンとフルーツワインの作り方を教え始めた。元気溢れる子供だった彼には、飲むということよりもエネルギーの解放先として、自分の手で何かを作り出す楽しみを教えることが目的であった。まさかそのエネルギーの解放手段がその後の職業になるとは、彼の母親は思いもしなかっただろう(もしかしたらそうなるように仕向けていたのかもしれないが)。
十代半ばの頃、彼のビールづくりへの興味は日に日に増していった。ジュニパーは麦芽エキスを用いたキットでつくり始め、彼の兄が麦芽のフルマッシングに関する本を買ってくれたとき、その手法に変えた。ブライトン大学に通っていた時も、少ないバイト代でつくれる限りのビールをつくり、しばしば地元のパブに味見してもらうために持ち込んでいた。これも運命だろうか、そのパブで彼のビールを飲んでいた一人が、ダークスター・ブルーイングでブルワーとして働くことになった。
ジュニパーはその後何が起こったかを語ってくれた。「その翌日、仕事をしないかと電話がありました。彼らはもう一人ブルワーを探していて、私自身も大学生活に飽き飽きしていました。楽しいと感じなかったし、お金もありませんでした。そしてその日、突然チャンスが降りかかってくるまで、職業としてビールづくりをするなど本気では考えていませんでした」。その時、彼は19歳だった。
自分の子供が大学を辞めてビールづくりをすると聞いたら、多くの親は良い顔をしないだろう。しかしフルーツワイン好きな母親と、フェンス(柵)職人の父親との会話はスムーズに運んだ。「大学を辞めて働いてもいいか、電話で両親に尋ねるのに、短い電話1本で済みました。特に父親は喜んでいました。彼は昔の考えを持った人で、労働と修行が大切だと信じているのです。私が大学を辞めてビールづくりをすることに、とても乗り気になっていました」
彼はパブで短い面接を受け、ダークスター・ブルーイングに迷いなく飛び込んだ。見習いから始まり、その後まもなくアシスタントブルワーに昇格した。シニアブルワーの一人が母国カナダに戻るために退職すると、彼は働き始めて1年足らずで、マーク・トランターの下で働く、上から2番目のブルワーとなった(現在マークは、非常に評判の良いバーニングスカイ・ブルワリーのオーナーである)。
ダークスターは設備拡大のため、45バレル(約5280リットル)規模のブルワリーの建設を開始した。醸造長が稼働開始に向けて奔走している間、ジュニパーは既存の15バレル(約1760リットル)設備の操業を任されることになった。新しいブルワリーへの移動が完了した時、気がついてみると、彼の役割は原料や製造に関するほかの側面の管理にまで広がっていた。全てがうまくいっているように思えるが、なぜそれを捨ててまで日本に来ることを選んだのだろうか。
移住したいという願望は、趣味に端を発していた。彼は大学を辞めた時、脳の活動を持続させるために、ビールづくり以外で何かしら学問的な趣味を欲していた。当時日本のパンク音楽にはまっていた彼は、日本語の授業を毎週受けることにしたのだ。そして文化を体験してみたいという衝動と、習得した言語を試してみたいという願望が、2009年3月の日本旅行へのきっかけとなった。
初めての日本旅行は、期待をはるかに上回るものであった。ダークスターを介して知り合ったクラフトビールコミュニティの数人の力を借りて、さまざまなクラフトビアバーを訪れた。また、箕面ビールを訪問して工場を見学させてもらい、日本のブルワリーの運営について見識を得ることができた。
良い思い出が頭に残っていた彼は、全ての休暇をためて2010年に3週間、再び日本を訪れた。滞在中、人材を探していた常陸野ネストビール(木内酒造)の木内洋一に紹介され、ジュニパーを長期にわたって雇い入れる計画が持ち上がった。ダークスターで4年半過ごした彼は、新しいことを学びたいと感じていたのだ。ダークスターでは全てのビールの二次発酵はカスクで行われていて、ケグやボトルにビールを詰める作業をプロのブルワーとして行った経験がなかった。さらに、レシピについて多少の自由はあったものの、大部分はトランターが考案していた。日本で働くことをトランターに伝えた時、あまり驚いた様子はなかった。ジュニパーによると、ダークスターは彼の決断にとても協力的だったという。
木内酒造で2011年から1年ほど働いたが、日本の会社文化の中でうまく立ち回ることができないことと、上から2番目のブルワーからかなり下の役職へ降格したことが相まって、彼は苛立ちを覚えていた。そこで彼は、カルチャーショックが少なく、気楽に働ける環境が整ったブリマーブルーイングに転職した。ジュニパーはこう話す。「ブリマーでは素晴らしい時間を過ごし、多くのことを学びました。スコット(ブリマー)は私にいくつかのレシピを任せてくれ、ブルワリーの始動期間に立ち会うこともできました」。この経験が、のちのTDM1874で役立つことになる。
ジュニパーはブリマーで1年過ごしたが、自分が本当につくりたいビールをつくることのできる醸造長として働きたい気持ちが強くなっていた。ブリマーでの仕事を通して、自らの創造性を形に表すことを覚えた彼は、次の段階に進みたかったのだ。彼は先頭に立ちたいという願望を強く持っていて、その望みを叶えられる場所を探すべく、ブリマーを去った。腹立たしいことに、ぴったりの場所を探すのには3年半かかった。その間、彼は英語教師として子供たちに英語を教えていた。理想的な状況ではなかったが、日本の会社構造の中での振る舞いを学ぶことができた。
ようやくビールづくりの現場に戻れたとき、彼は元気を取り戻した。加藤がブルワリーのことを多く任せてくれたのも、彼の創造力の刺激になった。社長は醸造に関してあまり口を出さないが、二人はよくコミュニケーションを取っている。ワインのソムリエと日本酒の唎酒師である加藤は、ビールの評価に深く関わっている。「品質がわかる確かな舌を社長は持っている」とジュニパーは称賛する。
ジュニパーによって開発されたビールの多くは、特に麦芽の風味が英国寄りだが、現在は米国のホップを使っていろいろ試したりもしている。彼らのビールは、麦芽の風味がしっかりしているビールを標準として、その中で伝統に忠実なものや、実験的な味わいのものが混在しているといった具合だ。
このブルワーが最も誇りを持つビールの一つで、麦芽をメインに据えたコンセプトの例として、ブリティッシュ・ベスト・ビター(以下BBB)がある。日本には本物のブリティッシュビターがあまりないと感じていた彼がずっとつくりたかったビールであり、彼の好みのスタイルのビールでもある。これはTDM1874で再注文率が最も高いビールだ。クラフトビールにあまり馴染みのない人にも飲みやすく、クラフトビールファンにとっても満足できる味わいを持っている(ただし、夏の間は季節に合わせた軽めのビールを提供するためにBBBは販売休止となる)。
加藤は、ジュニパーがブルワリーで自由に創作することに満足しているが、一つだけ求めたことがあった。それは地元の「浜なし(梨のブランド名)」を使ったビールをつくることである。横浜市緑区には多くの農地があり、その梨も近隣の果樹園で栽培されている。ジュニパーはアルコール度数4.1%のゴーゼ(酸味と塩気があるスタイル。詳しくは本誌第23号の『Sour Beer』記事を参照)を選んだ。梨はとても繊細な果物であるため、彼はドライなビールをつくりたかったのだ。そして弾けるような梨の味というよりは、アクセントとしての香りを楽しむような仕上がりになっている。
ジュニパーは、ここ数年に登場した新しいホップを使って、IPAのナンバーシリーズを始めた。このシリーズのビールは、実験的な楽しみと新しい味わいの両方を兼ね備えていて、飲む客を楽しませる。最初の二つはブリティッシュスタイルのIPAで、レシピは全く同じだが(アルコール度数6%、50IBU〈国際苦味単位〉)、それぞれ異なるホップを使用している(#1はエルドラド、#2にはアザッカ)。#3は米国寄りのスタイルで、まだ名前のないホップ(開発番号7270)のホップ香を主な特徴としたドライなビールだ。#4以降については楽しみに待っていよう。
評判の良いビールにはほかにも、トーストココナッツを使用したアメリカンペールエールのココ夏エール(アルコール度数5.8%、IBU37)がある。このビールは、フィールドワークブルーイングのオーナー兼ブルワーのアレックス・ツイートが今年初めに来日した際にジュニパーが飲んだ同ブルワリーのココナッツミルク(本号51ページ参照)に触発されてつくったビールである。この味を気に入ったジュニパーは、夏でも飲みやすい、軽めでドライなバージョンをつくろうと決めた。ココ夏は、最初に感じる香りがとても甘く、エクイノックスホップとココナッツがトロピカルな香りを添える。このビールは複雑でバランスを取るのが難しく、つくるのに一番苦労したビールの一つだったという。
ジュニパーが実験を続けていくにつれて、伝統と革新的な要素が組み合わさったビールがスタンダードになることを期待しよう。そして加藤は、大量生産のビールしか知らない人たちに、クラフトビールの良さを伝えたいと考えている。彼の店、そして店の外でも、ビール文化を変えていきたいのだ。TDM1874はすでに地元の酒飲みたちの間で反響を呼んでいる。近隣の住民はこの場所をすぐに気に入った。平日の夜に満席になっていても驚くことはない。同社のビールは関東エリアにも広がり、新しいファンが増えてきている。ありがたいことに、1カ月に一度開かれる市場というコンセプトは過去のものになった。
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