Campion Ale: a mission of Tradition



外国人が東京でだれの助けも借りずに、たった一人でブルーパブを始めるということは可能だろうか。あるいは、国内の東京以外の場所ではどうだろう。ビジネスパートナーも持たず、日本人の配偶者がいるわけでもなく、銀行からの融資も受けず、ただあるのは計画に対する自信と、「やればできる」という気持ちだけ。2013年12月、ジェームス・ウィリアムスがカンピオンエールを創立した時、彼自身もうまくいくとは思っていなかったが、実際にはこれまで順調に来ている。彼は完全に自分の貯金だけで事業を立ち上げた。これは、日本でなにかしら事業を始めようとする外国人居住者にとって、大変興味深い事例だろう。まして、日本で一からブルーパブを始めるとは、特に興味を引く話である。

英国南東部のサリー州で育ったウィリアムスは、ケンブリッジ大学で数学を学んだ後、ロンドンで数年間金融コンサルタントの仕事に就き、やがて保険数理士の資格を取った。この資格は今でも、アルバイトでコンサルティングの仕事をする際に役立っている。数学的な頭脳を持っていることは、ウィリアムスの最も大きな強みかもしれない。これまで彼が事業モデルを組み立てるのに、大いに役立ってきたようだ。金銭的な話をする際に、彼が頭の中で計算をしているのがよくわかる。細心の注意を払いながらさまざまなリスク計算や利益計算を行なった上で、うまくいく確率を算出し、最終的な意思決定を行なっている。

では、日本でブルーパブを開業するという意思決定はどのようにしてなされたのだろうか。煩悩を持った多くの人々が抱く旅行熱というものにウィリアムスも取り憑かれ、大学を卒業してから就職するまでの間に、長い旅に出ることにした。日本にも1ヶ月ほど滞在し、JETプログラムで来日して英語を教えていた友人にも会った。日本を好きになった彼は、またいつか戻ってこようと密かに決めたのだった。就職について本気で考えなければならなくなったころ、長旅を終えてイギリスに戻った彼は、金融コンサルタントの仕事に就いた。

就職して数年後、彼は保険数理士の資格取得のための難関試験をすべてクリアしたが、再び旅に出たくなり、2008年に日本で生活しようと決めた。大学卒業直後の旅行時にはタンザニアにも半年間滞在し、ボランティアで英語の先生らしきこともやった。タンザニア滞在時にキリマンジャロ登頂も果たしたが、これはかなりの忍耐力と根気強さを要求される出来事だったろう。アフリカで英語を教えた経験に基づき、彼は日本で英語を教えるための申請をJETプログラムに行なった。申請が通り、彼は山形県遊佐町という田舎町に派遣された。

山形県での生活は快適だったが、その仕事は彼にとってちょっと退屈すぎた。とはいえ、その仕事のおかげで日本語を覚えることができたことは間違いない。2009年、彼は東京でコンサルティングの仕事を見つけ、再び金融関係の世界に戻ってくることになった。数年後、東京での暮らしを楽しんでいた彼は、ずっとそこで生活したいと望むようになっていたが、今の仕事ではなく、独立を考え始めた。

彼の心の中でなにかビール関係の仕事をやりたいという思いが少しずつ大きくなっていった。「日本に来たころよりも、イギリスのビールやパブ文化のことを考えるようになっていました。居酒屋に行っても樽生は1種類しかなく、さまざまなビールを楽しむことができるイギリスのパブ文化を恋しく思いました」。山形県にいた当時は田舎だったので色々なビールに出会えることを期待する気持ちはなく、不満も感じなかった。しかし、何でも揃っているはずの東京に来てからは、美味しいパイントビールを見つけることがこんなにも難しいのかとショックだった。

当初は古典的なパブだけを出すことをイメージしていたというが、醸造設備と合体させた方がもっと面白いと考えた。醸造設備を整えながらビジネスとしても成り立たせるというチャレンジに彼は心を躍らせた。4〜5年前、東京のクラフトビアシーンが活気づき始めたことを知り、冒険的事業だが将来性が見込めると思われた。

成長しているクラフトビアシーンにおいて、英国スタイルが「過小評価」されていたことが彼は悔しかった。日本のビールづくりの歴史は圧倒的にドイツ寄りであったし、現在でも正統派のドイツビールがビール文化の大部分を占めている。ベルジャンスタイルは早くからマーケットに参入してきていて、アメリカからの影響も近年は定着している。その中で、彼は東京という大都会にブリティッシュパブを売り出す好機を見出した。



いろいろ計画を練っていたころ、彼は理想的と思えるブルーパブに出会った。高円寺麦酒工房だ。そのオーナー経営者、能村夏丘は東京でブルーパブが成功するというモデルケースをウィリアムスに示してくれた。広告代理店の仕事からブルーパブ(現在は4店舗)の経営に転業した能村の成功例は、ウィリアムスがやりたかったことの生きた手本となった。

ウィリアムスは自分もうまくいくことを信じて一旦イギリスに戻り、サンダーランドにあるBrewlabという醸造学校に入学、3ヶ月間の醸造コースを受講することにした。自家醸造の経験のあった彼は、醸造過程を理解するための基本的な知識は持っていたが、もっと詳しく技術を学びたかったし、専門家の指導を受けたいと思っていた。より具体化したアイデアを胸に日本に戻ってきたウィリアムスは、醸造の認可を得るための手続きと、必要となる設備の詳細について調査を始めた。

開業地として彼は「半分は自ら好んで、半分はただ安かったので」浅草を選んだ。パブのためのスペースと、小さいながらも醸造のための空間を確保するためには、東京都心部以外の土地を選ばざるを得なかった。東京の東側がいくぶん安かった。また、彼は浅草という土地柄を気に入っていた。彼はこう説明する。「都心をちょっと離れたこのエリアを調べていたとき、この下町の感じが気に入りました。近隣にほかのパブやクラフトビール専門店もあまりありませんでした。この街の伝統的な雰囲気になにかちょっと面白い要素を織り交ぜてみたら面白そうだと考えました」。

カンピオンという名前は、19世紀初めの、ウィリアムスの実際の祖先に当たる人物の名前から取られている。その人物が1833年に書いたという手紙の実物がバーの壁面に飾られている。その名前は、一族のその後の世代のファーストネームあるいはミドルネームとして継承され、現在のジェームス・カンピオン・ウィリアムスに受け継がれた。正統派のブルーパブを開業するとき、200年という家系の伝統以上に心強いものはないだろう。同店のロゴに見られる花の絵柄も、カンピオンの本来の意味である仙翁(センノウ)という花を模している。

設備を管理・運営するには誰かのサポートが必要だということになり、彼は友人の紹介で黒田錠次のサポートを得ることになった。黒田は横浜ビールでクラフトビールの世界に入り、そこでタンク洗浄、ボトルのラベル貼り、そのほかもろもろの「楽しい」仕事を任されていた。その後横浜ベイブルーイングに転職し、鈴木真也の助手として醸造に携わった(19ページ参照)。

ウィリアムスと黒田の二人がやっとパブをオープンさせたとき、ラインナップはビターとポーターだけだった。当初のウィリアムスの計画通り、その二つは今も定番銘柄となっている。現在、店で提供されている4〜5種類のビールはすべて店内で醸造され、5つあるタンクから出てきたばかりの新鮮なもの。ウィリアムスによると、「多様なカラーのビールをつくりたい」とのことである。ビター、ポーター以外に彼らがリリースしてきたさまざまなカラーのビールには、ゴールデンあるいは麦芽の味わい豊かな英国スタイルのウィート、レッドエール、ブラウンエール、スタウト、ブリティッシュIPA(通常のものよりもややホッピーで苦みが強くアルコール度数も高め)、ストロングエール、マイルドエール(アルコール度数3.1%)、そして最近では、山形県在住時代の旧友から仕入れたさくらんぼを使ったチェリーエールなどがある。名前の付け方については、単純なものが好みだという。外販はしていないのでブランド化の必要もなく、彼の言葉を借りれば、「スタイル名がそのまま中身を表しています」とのことである。

ホップの効いたアメリカンIPAやインペリアルバニラパイナップルポーターといった試作ビールを堪能したことがある人なら、カンピオンの正統派ブリティッシュブルーパブスタイルのアプローチについて知りたいと思うだろう。同店は数か月に1回のペースで「仕込み見学会」を開催している。これは穀物などの原料がどのようにして美味しいビールになっていくのかを見たい、知りたいという初心者のための企画である。「醸造過程で一番興味深いのは、麦芽から甘い麦汁ができ、それを発酵させるとビールになるところだと思います。そのプロセスは本当に面白くて、ビールの原料を間近に見たことがない人なら、『ああ、こんなものがビールになるんだ』と、興味深くご覧いただけると思います」と、ウィリアムスは説明してくれた。

レストランで働いた経験のないウィリアムスのブルーパブは、開業当初、彼がつくることのできる、とてもシンプルなフードメニューしかなく、早急に料理のプロを探す必要が出てきた。その後、2015年1月に濱崎紘行が入店した。ヒロという愛称で呼ばれる彼は、イギリスに4年間住んだことがあり、そのうちの2年間はブリティッシュパブのビジネスについて学んでいた。彼は、マッシュ状にしたグリーンピースをメニューに導入し、冬場のシチューにポーターを入れたり、フィッシュ&チップスのフィッシュの衣にビターエールを混ぜて揚げたりしている。このように、同店は現在、ウィリアムス、黒田、濱崎の3名が中心となっている。

カンピオンはウィリアムス不在でも店の業務を回せるように徐々に進化してきており、そのおかげで、ウィリアムスはいろいろな取りまとめや企画立案に時間を使えるようになった。今現在の同店の状況について尋ねると、次のような答えが返ってきた。「うまくいっています。デスクワークと違い、非常に実務的な仕事です。ブルーパブでは醸造過程のすべてを知ることができるので、素晴らしい経験ができています。自分でつくったビールが目の前のお客さんのグラスに注がれているのを見れるのはとても嬉しいことです」。

カンピオンは昨年およそ12キロリットルのビールをつくったが、今年の生産量はもう少し増える可能性がある。近い将来に規模を拡大することは考えていないらしいが、いつか彼がなにか新しいことを始めるだろうことは感じられる。醸造規模を拡大して外販を始めるか、姉妹店をオープンさせるか。成り行きを見守るしかない。しかし一つだけはっきりしていることがある。それは、何が起こるにしても、それは十分に練られた計画に基づいたものであり、ウィリアムスはそれをきっと成功させるだろうということだ。


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