Sierra Nevada Brewing Company – Ken Grossman’s Government of Goodwill and Good Beer

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シエラネバダブルーイングカンパニーはアメリカン・ドリームの証である。しかしながら、昨今の所得格差の広がりを考えると、それはアメリカで暮らす多くの人たちにとって捉えどころのない夢のように思えるかも知れない。創業者のケン・グロスマンは、北カリフォルニアの半田舎の大学町チコでガタのきた機材と最小限の資材をかき集め、ブルワリー実現化の初期段階を乗り切った。当時、小規模醸造はまれに見る奇妙なものでしかなかった。ほとんどのアメリカ人はがぶ飲み用に大量生産されたビールを飲んでいたし、少なくともある業界人は、アメリカに残っている数十のブルワリーのうち、工業醸造複合企業体2社を除いてすべてが潰れるか買収されるだろうと予測していた。しかし、そうならなかったのはグロスマンのおかげでもある。今日、彼の会社はアメリカで売上高第2位のクラフトビールブルワリーであり、業界全体でも売上高第6位を占めている。

グロスマンの指揮下でのこの30年、シエラネバダは目覚しい成長を遂げるとともに環境的な記録も達成した。アメリカで最もクリーンな企業の一つであり、2010年には米国環境保護庁から「グリーンビジネス・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。固形廃棄物の99%以上を埋め立てごみ処理場に回さず処理する。従業員には十分な福利厚生を与える。企業としての寛大な援助と地域社会への貢献には安定した実績がある。シエラネバダが政府だったら世界で最も慈悲深い政府の一つになるだろう、というのもアメリカン・ドリームだろうか。
そして、シエラネバダは素晴らしいビールを世に送り出している。

この米国的ビジネスの象徴は、どのように実現したのだろう。多くの似たような人たちと同じように、情熱と不合理ともいえる決意、そして何年にもおよぶ献身的な学習を通して磨き上げた一連の技術によってそれは実現した。成功は表面上そう見えるほど保証されたものでは決してなかったが、ケン・グロスマンはその役割にふさわしい人物だった。

「いまだに眠れない夜があります」と、チコのブルワリー本社にある個室のオフィスで彼は言った。部屋は比較的広々としており、部下と一緒になって仕事をする社長には大きすぎると思われる上品なデスクがあった。インタビューが予定より少し遅れて始まったのは、グロスマンがブルワリーの技術的な問題の対応に追われていたからだ。オフィスの壁の一面は、洞窟のようなブルワリーのロビーと巨大な銅製の醸造釜を見下ろせるように片面からしか見えない窓ガラスで覆われている。それは帝国の上に取り付けられた窓のようだが、実際はある農奴によってつくられたものである。

著書「ペールのかなたに: シエラネバダ・ブルワリー社の物語」の中で、グロスマンは、彼と彼の妻が僅かな資金しか持たず、田舎の農場で暖房代も払えない生活を送りながら、食糧資源の足しとして鶏やヤギを育てていた初期の話について詳しく述べている。自ら醸造したビールは、肉体的にも精神的にも食生活に必要不可欠なものであった。それがシエラネバダの基盤をつくったのである。

グロスマンは自分でブルワリーを始めることが可能だと気付くかなり前にチコで自家醸造の店を経営しており、ビールに対する情熱を抱いていた。現在、米国は100万人を超える自家醸造家を擁しているが、彼がこのビジネスの試みを始めた1976年当初、それはかなりユニークで先が見えないものであった。彼はチコのコミュニティカレッジで化学のクラスを受けながら自転車屋で働いていたが、自家醸造の趣味については10代の頃にさかのぼる。子供の頃から化学に強い関心を抱いていたグロスマンは高校に通う少し前の1969年に自家醸造の実験を行った。渋々ながらも母親が理解を示してくれたおかげでグロスマンの趣味はすぐに定着し、10代の頃はずっと自家醸造をしていたという。

自家醸造の店に弾みを与えたのは、自ら醸造したビールを一緒に飲んでくれ、パートナーになることを望んでくれた隣人だった。自家醸造のブームがアメリカで広がり始めて間もない頃で、彼らはチャンスを感じ取った。いじくり回したりつくり上げたりすることへの尽きない関心、ビールづくりへの情熱、化学のクラス、企業経営と在庫管理の経験――グロスマンはブルワリーに必要な基本的なスキルを全て習得していた。

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米国の近代クラフトビール運動の火付け役となったアンカースチームはすでに存在しており、グロスマンはその試みに感銘を受けた。大胆な風味のエール醸造でビジネスは成り立つことには気付いたが、企業買収をやってのけたフリッツ・メイタグは金持ちだった。自家醸造の店の経営以上に、グロスマンにはどんなチャンスがあったのだろうか。

グロスマンと自家醸造仲間のポール・カムシは、自分たちのブルワリーを始めることができるかを思案した。そして、1978年にカリフォルニア州ソノマに新しくできたニュー・アルビオン・ブルワリーを訪れた。この優雅さを欠いた、米国初の小規模ブルワリーの一つが彼らに気付かせたことは、自家醸造から商業醸造への方向転換が可能だということだ。当時彼らが気付かなかったのは、約2年にわたる計画と失敗ときつい仕事は言うまでもなく、彼らの貯金額をはるかに凌ぐ潤沢な資金が必要であったということだ。

今日、米国醸造家協会は醸造家に対して非常に貴重な支援を行っている。醸造家たちも通常、お互いに知識を共有したり助け合ったりしている。銀行もクラフトビール業界に対するローンに寛容になっており、見本市でブースを出展するところもあるほどだ。新しく事業を始める人たちのためには確立されたビジネスモデルが十分にある。しかし、グロスマンがブルワリーを始める限界に達した1980年には手本となるような情報はほとんどなかった。当時を振り返ってみて、彼が欲しかった今のビール業界にあるものとは具体的に何だろうか。
「ちょっとした諸刃の剣です。利用できる情報がない環境で、私たちは工夫し、新しい手法を導入して問題を解決することを学びました。私たちは一貫した質のビールを造る方法を見出す必要がありました。そのためには、多くの問題を自分たちで調査する必要があり、そのプロセスすべてが健全なものであったのだと思います。それは、問題の解決法を簡単に見つけてしまうのとは対照的に、私たちの技術への敬意をもたらしてくれました。問題解決はブルーイングの一部だと確信しています。それは企業経営に必要なスキルを習得する助けにもなるのです」

彼らにとって問題は最初から山積みだったようで、今後ブルワリーを始める人たちが似たような経験を望むことはないだろう。彼らは古くて欠陥のある設備を間違って購入したために、初期投資の50,000ドルほぼすべてを使い切ってしまったのだ。さらに小額の融資を家族に頼むことになった。グロスマンは、廃品置き場や古い酪農場、潰れたブルワリーの跡地に出向き、ブルワリーを何とか形にするために必要な部品を集めた。1980年11月15日、ついにブルワリーが開業したときでさえ、困難は終わらなかった。最初に仕込んだ主力商品のペールエールのできは上々だったものの、その後は仕込むごとに品質が低下した。彼らは酵母と必要な設備の変更が犯人であることを突き止め、低品質のビールを売ることを控えた。

グロスマンは、ブルワリーで犯した最も大きな過ちについて聞かれると、今でもこの事件を振り返る。

「私たちはたくさんのビールを捨てています。そんなことをするのは好きではないし、日常的にしているわけではないですが、私たちは重要な決断を下しています。それが正しいことだといいのですが。自分たちの期待にそぐわない点を心配するくらいなら、慎重過ぎるくらい慎重になった方がいいのです。自分たちが誇りに思えないものを外に出すよりも、損失をすっぱり諦めようと。それは痛みを伴います。ビールが悪いわけではなく、単に思っていたようにならなかった場合や、他のバッチと品質が一致しなかった場合は特にそうです。最近、私たちはノースカロライナの施設で大量のビールを捨てました。私はここチコでもビールを捨てていますし、最初のブルワリーでもビールを捨てました。そのことを誇りに思ってはいませんが、あの時に捨てておけばよかったと後悔したくないので、今までそうしてきました」

シエラネバダの品質に対する厳重なコミットメントは、その成功を決定的なものにしてきた。その小さなブルワリーは基本的に最初から財政上採算が取れていた。「それでもつらい仕事でした」とグロスマンは言う。彼は長期にわたって家族との時間を犠牲にし、休暇も取らなかった。1957年モデルの古いシボレートラックの平台にビールの木枠を積んで、サンフランシスコベイエリアの卸業者まで届けたときのエピソードを詳しく語った。その卸業者は彼がそんなに古いトラックにビールを載せて遠路はるばる運んできたことなど到底信じられなかった様子だったという。

Ken’s Frankenstein bottling machine. Lightening not included.

懸命な働きが報われ、発注は伸びたものの、それは頭痛の種にもなった。短期間の契約醸造は断固として拒みつつ、数年間は生産量を増やすために絶えずブルワリーに微調整をしたり手を加えたりしていた。これは、彼が著書やインタビューの中で嫌悪感を隠すことのできないトピックである。

1980年代のアメリカのクラフトビールブ-ム初期に関して、彼はこうコメントしている。「私たちが部品を溶接したり組み立てたりしながら、ブルワリー設備をつくっていた頃に、契約醸造を行い、単にビールを発注するだけの同業者に対して失望感を抱いていました。腹立たしさを感じていたわけでは決してありませんが、今日のようにウェブサイトで調べれば問題を解決できる時代とは全く違い、自分たちで何週間何ヶ月もかけて解決するしかなかったのです。私は醸造家のために蓄積され公表されている知識のレベルに感謝すると同時に、もちろん私自身もそれを大いに利用しています」

グロスマンとカムシは自身の直感を信じ続けた結果、1986年5月に、影響力のある地域出版物『サンフランシスコ・エギザミナー』の特集記事により幸運をつかんだ。売り上げはうなぎ登りに上がり、より大きな醸造施設を建設するための新しい場所を半狂乱で探し始めた。その年の生産量は7,000バレルにまで達した。

1時間におよぶインタビューの中で「ゼロからブルワリーを始めようというクレイジーな考えが、うまくいくという確信に至ったのは一体いつの時点でしたか?」と尋ねたとき、グロスマンは初めてどっと笑った。

「何だって? ブルワリーを始めることがクレイジーだと思う?」と彼は聞き返した。

実際のところクレイジーだ。人口統計的または経済的な流れに逆らって生き残る企業はほとんどない。グロスマンはアメリカのブルワリー数が史上最低であったビールの暗黒時代に事業を始めた。当時のブルワリーはビールのアルコール度と苦味を抑えていた。

彼は答えた。「ようやく動き出したのは、おそらく1990年代初めだったと思います。1980年代後半に、自分が本当のビジネスをしているのだと気付きました。その前、80年代前半は、なんというか、趣味ではありませんが、成功の確信もありませんでしたし、内容の薄い夢物語みたいな感じでした。1988年にこのより大規模な醸造所に引っ越したときは既に事業を始めて10年目でしたから、小額の借金も可能でしたし、20,000バレルというサイズのブルワリーとしては企業運営が成功するように思えたのです」

ところが、成功とともに違った類の困難が彼らを襲った。グロスマンは自ら認めているとおり、仕事中毒である。彼のビジネスパートナーはそうではなかった。報酬、株主資本、所有権をめぐって緊張は高まった。著書の中でもその辛さを詳述しているとおり、時間と費用のかかる訴訟を通して解決するしかなかった。これから事業を始める醸造家と経営者が潜在的な争いを避けるには、どうしたらいいのだろうか。

グロスマンは答える前に深呼吸をした。「共同経営は結婚のようなもので、アメリカでの離婚数は増えています。ベンチャービジネスの共同経営者が同じ考えを持てずに所有権の変更を余儀なくされる結果に至るのは珍しくないことです。ですから、注意してください。共同経営がうまくいき、仕事を共有できる場合もあるのです」

実際、会社の立ち上げを担当した最初の弁護士は「50:50の共同経営は結婚のようなものですから、二人とも事業が成功するように一生懸命働かなくてはいけません」と予言的に警告していた。

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グロスマンは、彼自身の結婚と家庭という、より繊細な話題に関しても、後悔は口にしないが、いわば切ない気持ちで状況を受け入れるしかないという。

「ブルーイングという無限定のビジネスを自営でやっているとそこが辛いところです。家族や自由な時間を犠牲にしてしまうことは何とかしなくてはいけない大きな課題の一つです。私が知っているほとんどの醸造家は自分のビールと会社に情熱を抱いています。ブルワリーは非常に手のかかるもので、私生活や家庭生活に影響を及ぼします」

結果的に、娘のシエラ(社名と同じく、近隣のシエラネバダ山脈に因んで名づけられた)と息子のブライアンは、会社が成長していく過程で重要な歯車となった。

彼らの評価をたずねると、グロスマンは再び微笑んで答えた。「活躍しています。家族の力学は常に多少難解で興味をそそるものです。私の子どもたちの性格はみんなそれぞれ少し違うので、全員をバランスよく配置して管理する最良の方法を見つけ出す必要があるのです。それは良い経験ですが、努力を必要とするものです」

シエラは、カリフォルニア州バークレーに最近オープンした、シエラネバダの美しいビアバー「トルピードルーム」を支える原動力となった。ここでは、ベイエリアの多くのファンたちが遠路はるばるチコまで車で北上することなく、シエラネバダのすべてのビールを飲むことができる。一方で、ブライアンは新しいノースカロライナの施設の運営を担っている。ここのブルワリーはシエラネバダの二酸化炭素排出量を減らしているだけでなく、より新鮮な状態のビールを東海岸の消費者に届けている。

どちらのブルワリーも最新鋭の設備を備えており、グロスマンが望むほど、その利益は必ずしもコストに見合うものではない。しかし、シエラネバダが醸造の研究と革新の最先端にいるのは、そういった実験装置への投資によるところが大きい。シエラネバダは知識共有に寛大で、若い醸造家が険しい道のりを経て、より高品質のビールをつくれるように指導している。グロスマンの偉業を全面的に尊敬しない醸造家にいまだかつて会ったことがない。

しかし、グロスマンでさえ偉人たちの肩の上に立っているのだ。1980年代の危機までさかのぼり、当時、話を聞けたとしたら誰に電話をしたか尋ねてみた。

「フリッツ・メイタグ。あるいは彼のヘッドブルワーのマーク・カーペンター。友達になった大手ブルワリーの技術者たち。私は80年代初期に設立された醸造家協会で積極的に活動をしていたので、1983〜84年頃にオーガストシェルのテッド・マーティに電話をしていれば、彼は必ずや自分の考えや経験を共有してくれたでしょう。あるいはアンハイザー・ブッシュかクアーズの誰かに聞くこともできました。きっと彼らは助けになって支えてくれたでしょう。シーベル協会は当時からあって、ロン・シーベルも知り合いでした。必要なときには彼に電話をかけて醸造に関するアドバイスを受けることもできました」

「とはいえ今はすべての答えをご存知でしょう!」と茶化すと、グロスマンは苦笑いを浮かべた。

「いえ。すべての答えを知っているわけではありません。そんなことはありえないし、そんな人はいないのです。すべての答えを知っていると思っている人やそう言っている人は、例外なくそうではないのです」

The Torpedo Room staff are friendly and extremely knowledgeable, owing as much as the great beer to the tasting room’s success.

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