Baird Brewing



ベアードブルーイングは、日本最大のクラフトビール醸造所になる準備が整っている。すでに大勢の人々はベアードが最高だと考えているので、そう主張するのは難しいことではない。

これほど質の高いビールをこれほど安定してつくっている醸造所は日本にほとんどない。そしてもちろん、ベアード以上のバラエティを打ち出している醸造所はない。5軒あるベアードタップルームのどれかに立ち寄ってみてほしい。毎週のように何かしら新しい季節限定ビールがあるだろう。事業をこれほど成長させたクラフトビール醸造所は日本にほんのわずかしかないのは、間違いない。創始者であり社長であるブライアン・ベアードが再三述べているようにベアードは決して金持ちではないのだが。

だがそれも、静岡県修善寺の田舎で、なだらかな丘の間に開設したばかりの美しい大型醸造施設によって変わるだろう。この新しい醸造施設の1回の最大仕込み量は、6000リットルで、それは発泡酒免許を持つ醸造所が1年間で最低限醸造しなくてはならない量と等しい。ベアードは今ではこれを週3〜4回仕込む。この醸造所は年間醸造量を600万リットルにまでスケールアップが可能で、これは現在日本で最大のクラフトビール醸造所の2倍を超える量にあたる。それほどの規模と質のレベルを持つベアードは、日本、そして日本のビールを輸入する近隣諸国におけるクラフトビールの状況を変えていくだろう。

これらは決して、幸運や魔法によるのでもなければビッグマネーの力でもない。ブライアンが持つビジョンと決意によるところが大きいのだ。私が初めてベアードを訪れたのは2001年で、彼が妻のさゆりと共に起業して数ヶ月後のことだった。ブライアンはたった30リットルのシステムで醸造をしており、大変なハイペースで次々とつくり続けた。同時に彼の学習曲線も急上昇していた。当時は金銭的にかなり厳しく、ある夜、さゆりが生活不安で泣いていたのを覚えている。

ブライアンは財務を得意とし、初期の切迫した日々から現在の規模に至るための支えとなった事業計画を整えた。アメリカの著名な富豪で、投資家でもあり慈善家でもあるウォーレン・バフェットを熱心に信奉するブライアンは、大学で政治経済学を学び、大学院では日本研究と国際経済学を専攻した。自分の事業計画を適切に推進するためには資金が必要になることを確信していた彼は、投資者を募った。推測や噂に反して、ブライアンとさゆりが何年もかけて友人や家族から募った資金は多額ではなく、質素な中流階級層の職業人が供出できる控えめな金額だった。ブライアンとさゆりは常に社のコントロールの中枢にいた。新しい醸造所で催された一般公開前の落成式で、ブライアンは集まった人々(醸造所建設にかかわった地元政治家、投資者、業界の大物など)に投資資本の重要性を示した。

それでも、ベアード・ブルーイング社の歴史の大半は資金繰りにかかっていた。今では新しい醸造所のタップルーム入口に飾られている原始的な30リットルシステムを見ると、ベアードが進んできた道のりの長さに感嘆せずにはいられない。当然、話はビールとその品質に戻る。ビールと品質なくして投資資金の額など意味がない。

ブライアンは語る。「『これだ!』とひらめいた(エウレカ)瞬間などはなかった。時間が経てば経つほど、私がクラフトビールと本気の恋に落ちたのがいつだったか、はっきりわからなくなってくる。徐々に気持ちが高まっていったのだ。1989年に大学を卒業した時、クラフトビールはアメリカでもまだそれほど人気が高まっていなかった。近代日本史のコースをとったおかげで私は日本に心を奪われ、大学を出るやいなや大阪で3年間英語を教えた」

その後ブライアンは、ワシントンDCにある一流校ジョンズ・ホプキンス大学の大学院に進学するためアメリカに戻る。そこで彼は、現在ベアード・ブルーイングのマネージング・ディレクターであるジョン・チェセンと出会った。2人はよく伝説の店ブリックスケラーに通ったという。市販ビールの種類が最も多く揃っているとしてギネス認定されたこともある店だ。その数、1000種以上。

「卒業が近づいた頃、日本ではビール業界の規制緩和が起きていたので、戻るには面白いタイミングだと思った。クラフトビールだけでなくクラフト文化に興味があった。日本人は昔からクラフトが得意だ。小規模サイズで職人技によるビールをつくることは、迷いなく魅力的に思えた」

ブライアンは日本へ戻りサラリーマンとして働くが、クラフトビールの発展をしっかり追っていた。彼も、ワシントンDCで出会っていたさゆりも、ビールが好きだった。自分が東京でのサラリーマン生活を望んでいないことに気付いたブライアンは、ビール業界に参入して成功するにはビールに関する知識がもっと必要だと考えた。

1997年、質の悪いビールが広まったため日本のクラフトビール業界の欠点が露呈し始めた頃、ブライアンはアメリカに戻り、アメリカ醸造者協会で醸造と工学の3ヶ月コースを履修し、次いで北西部のレッドフック・ブルワリーで見習い修行をした。

「私は常に日本に戻って醸造することを望んでいた」

その夢の実現は延期された。1997年末に彼が日本へ戻った時は、醸造設備用の備品製造業者の社員としてだった。ブライアンの仕事はブルワーを教育して設備を販売することだったが、彼の初仕事は沼津のブルーパブだった。

「自分の会社が商品を販売する方法やビールを醸造するやり方を信じられなかった。会社を辞めて醸造設備のサプライヤーとしての職を新たに探したが、私は究極的には醸造することを望んでいた。さゆりと私は金のために副業で翻訳をしたが、私がつくりたいビールをつくる人は誰もいないとわかった。そこで、自分のブルワリーを立ち上げるか、東京に戻ってサラリーマンになるか、どちらかにすると決意した」

ブライアンは小さな自家醸造システムを購入した。前述の30リットルシステムだ。そして、続く1年半の間、自宅のバルコニーで自家醸造をしながら事業計画を策定した。その計画書のために、バフェットが書いた年次報告書をすべて読んだ。

当時を思い出してブライアンは突然声を大きくした。「これほど長い時間と苦労が必要になると当時の私が知っていたら、始めなかっただろう。だからビールに対する情熱が大切なのだ。何もかもが想像よりはるかに厳しい。だが自分がしていることを好きでいれば諦めることにはならない。失敗をして自分が望まない方向に転向することにはならない。私たちがスタッフを雇用するときは、彼らの目を覗き込んで『彼らは好きなんだろうか?』と自問する。最終的には、私は金を稼ぎたい。4人の子供がいるのだ。自分の人生をここにつぎ込んだのだ。だが、誠実さと統合性、長期計画を持って仕事をすれば、成功する」

ブライアンの当初の事業計画書は200ページあった。続く数ヶ月間で複数の友人を訪ねて回り、計画を推進するための1000万円を集めた。ブライアンとさゆりは、1999年に税務署に行き、2000年3月に会社を設立。同年7月にフィッシュマーケットタップルームをオープンし、醸造許可の申請プロセスを開始した。その後は加速したとブライアンは言う。12月に醸造許可を獲得し、2001年に最初のビールをリリース。一朝一夕の成功ではなかった。

「初めの2年間は本当に大変で、歩みは遅かった。地元の市場が我々をまったく気にかけなかったからだ。だが沼津は中長期的には良いロケーションだと思った。水が良い。東京に近いので流通面も良い。コストは低い」

2年目の後半で、ベアードは初めて社外の顧客を得た。横浜市青葉区にある「地ビール厨房COPA」の小林宏明がベアードの最初の発見者だ。次いで「麦酒倶楽部ポパイ」の青木辰男。そして世界で最も尊敬を集めている日本酒エキスパートのジョン・ゴントナーと当時沼津にあった同名の焼き物ギャラリーオーナー、ロバート・イエリンが、日本酒のペアリングディナーを催していた東京の「宝」にベアードを紹介した。

2002年末までに、ベアードはフィッシュマーケットタップルームの下階に収まる250リットル規模の醸造設備を購入することができた。

ブライアンはこう認めている。「まだ赤字だったがパートナーたちは私を信じて投資を続けてくれた。自分の懐からも増資した。東京にいる方が資金集めは楽だっただろうが、私は沼津にいた」

2年目のその年に、ベアードの噂がクラフトビールファンの世界に広まり始める。タップルームの客のほとんどは東京からやってきた。Codeというアメリカ人とカナダ人によるロックバンドがライブ演奏をするようになり、店が満員になった(少なくともバンドメンバー1人と当時からの客数人は、後に投資者となった)。東京の顧客数は倍増し、そこからは安定成長に入った。需要を満たすために250リットル規模の醸造設備を導入したことがターニングポイントだった。

「驚くことに、私は14年間でたった2つの小バッチしか廃棄したことがない。二次発酵しなかったというだけの理由だ。ベアード主力商品のラインナップは進化をし、当時から続いて今もあるのは黒船ポーターと帝国IPAだけだ。私はアンカースチームが大好きで、アンカースチームをモデルにしたベアードのベイスチームビールはヒットになりそうだったが、小さなシステムで醸造するのは難しかった。そこでベイスチームはレッドローズアンバーエールに進化した。フィッシャーマンズウイートエールは、ホップを強めてウイートペールエールになったが、次に私はそこからシングルホップのペールエールを造り始め、最終的にはライジングサンペールエールが生まれた。基本的に、自分が好きだったものを追っている」

ベアードにとって次の飛躍は東京で最初のタップルームとなる中目黒タップルームだった。スタッフを直接的にではなく管理しなければならず、それは非常に難しい挑戦で、醸造所を軌道に乗せて以来、初めての困難だったという。

「タップルームは当初から我々の計画に不可欠で、私は市場のすべてのレベルに届くことができれば優れた企業になると考えていた。人々に直接販売できるショールームが必要だった」

ベアードビールに対する需要が高まり続ける中、2005年後半に、より大きな醸造所を沼津のフィッシュマーケットタップルームからわずか数ブロック先につくり、2006年から醸造を開始した。至るところに存在しているかのようなラフ・インターナショナルの堀輝也がブライアンと共に醸造施設に関連する仲介と委託を手伝った。顧客は全国的に増え続け、原宿と、横浜の馬車道にタップルームが増えた。ニーズはうなぎ上りだった。この急成長期に、そして部分的にその成長を助けているベアード・ブルーイングは、2010年ワールドビアカップで3つの金賞を獲得した。内部情報によると、ベアードは「スモール・ブルーイング・カンパニー・オブ・ザ・イヤー」の最終選考にも残っていたという。

4軒のタップルーム、全国の無数の顧客、できたばかりの輸出プログラムを抱え、沼津の小さなブルワリーは醸造量の限界までフル稼働した。新しい醸造所の建設が必要なのは明らかだった。それもすぐに。

筆者がその新しい醸造所に着いてみると、皆が何かしらの力仕事をしていた。タップルーム間を行ったり来たりしているマネージャーの成岡とエグゼクティブシェフのジュン・オウは、醸造所と近場の川の間で薪を割っている。元ヤッホーブルーイングのヘッドブルワーで現在はベアードのアシスタントブルワーの田口昇平は、醸造所スタッフと共に樽を運んでいる。屋内では、スマートなビジネス服に身を包んだブライアンが汗を流して、ヘッドブルワーのクリス・プールと共に重いテーブルを移動している。クリス・マデールは夜の催しに向けてブルワリータップルームの準備をしている。タップルームの外にあるデッキからは、若いホップ畑と川辺近くのキャンプ用地(この新醸造所の土地はもともとキャンプ場だった)が見える。堀やイエリンなど古くからの仲間も到着し始めた。

醸造所ツアーはそれ自体ワクワクするものだ。醸造所にはサイズの異なるブルーハウスが3機あり、今後はまばゆいばかりのラインナップの提供が可能だ。ドライホップ機は醸造所の床に静置されている。ブライアンは、彼の専用実験室となる予定の場所へ私を案内し、床にいる新しいスタッフの1人を示した。その若い科学者は、必要な力仕事に従事している他スタッフと同様に、梱包機を操作していた。複数のオフィスの1つで、我々はジョン・チェセンとばったり会った。彼は寝不足らしく、醸造所建設(とブライアンの熱い「爆発」とスタッフと間の取り持ち役)から来る何ヶ月間ものストレスのせいで痛ましい姿だった。見事に設計されたこの場所を歩き回った後の全体的な印象は、日本のクラフトビールの新しい章が始まったということだ。

数日後の夜、私は横浜の路上でばったりブライアンに会った。閉店後の馬車道タップルームへ行き、ビールを数杯飲みながら、過去、現在、そして未来について語り合った。ブライアンはしばしば、彼が最も尊敬する業界人を引き合いに出す。自家醸造のパイオニアであり米国醸造家協会プレジデントのチャーリー・パパジアン、著名なビアライターのマイケル・ジャクソン、アンカースチームを蘇らせ、アメリカにクラフトビールムーブメントを起こしたフリッツ・メイタグ、シエラネバダ・ブルーイングの創始者で社長のケン・グロスマンなどだ。ブライアンは、日本でグロスマンを手本にすべく努力していて、品質では決して妥協しないという。

彼はこう続ける。「日本のクラフトビールの問題は、起業家精神の欠如だ。夢を持っていても、リスクを負うことを恐れない者が本当に少ない。何をどう醸造すべきか命令している会社社長が多すぎる。ブルワーがオーナーをしている例が足りない」

そして資金が不足している。または時間が。または優れたスタッフが。またはクラフトビールの受容が。それでもブライアンは夢を実現し、すでに先を見ている。

店の外で彼は言った。「日本のクラフトビールを変えようじゃないか。関心を高め、人々を教育しよう。状況を改善しよう」

誰しもに与えられた課題のようだ。我々はそれに挑む準備はできている。

by Ry Beville

http://bairdbeer.com








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