アメリカで一番おいしいビールが造られているのは主にどの辺り?といえばそれは西部。10人中9人のクラフトビール好きはそう答えるだろう。サンディエゴ、ポートランド、カリフォルニア北部といった地名も出てくるだろうが、美味しいビールといえば特に「ウェストコースト」という言い方をする人がほとんど。ホップの効いたアメリカンクラフトビールを象徴する言葉として「ウェストコーストIPA」という言葉をよく使うようだ。野生酵母を使い、酸味を含んだ複雑な風味を持つ樽熟成のビール、といえばウェストコーストを連想する。今回取り上げたのは現在アメリカで最も注目されているブルワリーの一つなのだが、西部ではなくイーストコースト寄りの辺ぴな農園の中にある。アメリカ北東部バーモント州にある、人口700人の小さな町グリーンズボロにあるヒル・ファームステッド・ブルワリーだ。カナダとの国境から40kmしか離れていないというロケーションだ。
ヒル一家は8世代、およそ220年間にわたり、この町に住み続けているという。アメリカ革命戦争で戦った兵士たちに対し、新政府が1781年に与えた土地の所有権をヒル一家も持っている。緑豊かな丘陵地帯の真っただ中に位置するヒル・ファームステッド・ブルワリーは2000リットル規模で、これはアメリカの数あるマイクロブルワリーの中でも小規模な方に入る。2010年4月創業、現在年間約260キロリットルという製産能力を持ち、そのうちのおよそ95%がバーモント州内で樽生で販売されていて、しかもブルワリーでの販売によるものが大半だという。水曜日から土曜日にかけて、ブルワリー前にはビールの量り売り用の容器(グロウラーという)を手にしたビール好きたちが列を作り、出来たてのおいしいビールを持ち帰って家で楽しんだり、友人たちと飲み交わしたりしている。
ヒル・ファームステッドを取り巻く田園風景は、ただ単に歴史を感じさせたり懐古趣味的であったりする以上に、ここで造られるビールにとって重要な意味を持っている。ここで造られること自体に重要な意味があるため、オーナー兼ブルーマスターのシュアン・ヒルは自分が造ったビールを表現する際にフランス語の“テロワール”(土壌の意)という言葉を使う。この言葉は元々ワイン用語であり、ビールの世界でテロワールという言葉が使われることはまずない。特定の畑で栽培されたホップや大麦がそれほどに際立った個性を持ちうるものだろうか?と考えられているためだ。ところがこのバーモント州の片田舎で造られるビールには確かにここでしかできない何かがあると思える。一例を挙げると、ヒルは地元の小麦、ハーブ、はちみつを好んで使うが、ゆくゆくは大麦の麦芽やホップについても地元で栽培したものを使いたいと考えている。しかし地元産の原料で最も大きな意味を持つのは何といってもヒルの祖父が掘ったという井戸からくみ上げられる水と、この土地に生息する野生酵母であり、特に野生酵母はヒルが醸造する各種エールの発酵過程で大きな役割を果たしている。
私たちはHill Farmstead Festival of Harvest Alesというイベント目当てでグリーンズボロまで車を走らせたのだが、実はその前の晩にバーモント州最大の町バーリントンにあるFarm House Tap and Grillという店でヒルのビールを初めて飲んでいた。夕食がてらこの店に立ち寄ったところ、ヒルのビールが4種類もタップで提供されていたので心躍らせずにはいられなかった。
まず、Edwardは5種のホップを使ったアメリカンペールエールで彼らの代表銘柄。トロピカルフルーツサラダのような柑橘系の優雅で甘い香りは子供の頃によく食べていたアイスキャンディー、オレンジシャーベットをコーティングしたバニラアイスを思い起こさせた。このビールはどんな銘柄のインペリアルIPAにも引けを取らない豊かなフレーバーを持ちながらもアルコール度数が5.2%しかなく、驚きを隠せない。
次に頂いたのはEverettで、こちらはココアのような深いフレーバーと素晴らしくスムーズでシルキーなボディを持つポーター。さらにLife Without Principleというビールはとても爽やかなゴールデンエールで、バレンシアオレンジとシトラスホップが原料に使われている。インペリアルIPAのSociety and Solitudeは甘いケーキのような、マンゴー、ピーチ、グレープフルーツのフレーバーが素晴らしかった。
これらのビールを飲んで感心したことが2つあった。1つ目はバランスがパーフェクトであること。それぞれがとてもおいしく、複雑な風味を持っていながら一つとして甘過ぎたり苦すぎたり風味が偏ったものはなかった。2つ目は質感の高さ、ボディと口当たりの素晴らしさ。今まで飲んだビールの中で最も口当たりが柔らかく感じた。シルクのように滑らかでスムーズで柔らかな口当たり。この柔らかさは井戸水を原料に使うことでしか出せないものだろう。
ヒルが造るレギュラービールの名前は一家のご先祖様達に由来している。Edwardはヒルの祖父の名前で上述の井戸を掘った人物。EverettはEdwardの兄。Abner Double IPAはヒルの曾祖父の名前にちなんで名付けられ、フランス語風なBiere de Normaは祖母を偲んでネーミングされている。インペリアルスタウトのDamonはかつて飼っていた犬の名前から付けられた。
一方、イレギュラーなビールや樽で熟成させたものについては哲学に関する有名なフレーズなどから名前が付けられている。インペリアルスタウトのGenealogy of Morals、バルチックポーターのFear and Trembling、セゾンスタイルの The Phenomenology of Spirit、ブロンドセッションエールのWaldenなどである。これらのネーミングから見えてくるのはヒルの関心が19世紀のドイツ哲学とアメリカの超越論哲学にあることである(ヒルは大学で哲学を専攻した)。また、ヒルの醸造所を訪れるブルワーたちとの共作、コラボレーションビールの多くはGrassroots Brewingのラベルが貼られている。
私たちがヒル・ファームステッド・ブルワリーに着いたのはフェスティバル当日の正午前だった。そこで私たちはヒルの造ったものと彼の仲間たちの手による合計16種類のビールをテイスティングする機会を得た。ファームステッド独自のベルジャンイーストのみを使ったものと、野生酵母を主として使った樽熟成のものがちょうど半々だった。ベルジャンイーストのみによって発酵を行ったものの中では、地元の野花から採れる蜂蜜を加えたセゾンスタイルのAnnaと、これも地元で栽培されたオーガニック小麦を使って醸造された、スパイスを加えないウィットビアFlorenceが特においしかった。Annaはハーブのような香りを持ち、ドライでありながらパンを思わせるフレーバーも併せ持つ。複雑な風味でとてもおいしい。一方、Florenceは小麦とレモンフレーバーのホップを用いることにより、フルーティで爽やかなビールのお手本のような仕上がりになっている。
しかし当日、約300人の参加者の間で特に人気が高かったのは樽熟成のビールだった。その中でも私たちが特に気に入った「Art」と名付けられたビールは野生酵母由来のファンキーな香りと、ヨーグルト、グレープフルーツ、レモンを思わせる酸味の効いたフレーバーがあり、それに僅かながら農家の納屋のような素朴な匂いとほのかなスパイスの香りも感じられた。酸味のあるエッジが強調されているが、全体のバランスを崩すほどではなかった。「E.」と名付けられたビールは草のような香りがありホッピーで、酸味はやや抑えられ、パンのような穀物系のキャラクターが感じられた。そしてもう一つ、参加者たちの間で話題になっていたのがABV10%の樽熟成インペリアルセゾンMimosaである。柑橘系ホップのアロマが際立ち、クリーミーなヨーグルトフレーバーも併せ持つ。ユニークで面白いビールだが私たちには少々甘みが強すぎる感もあった。もう一つ、人気を博していたのがCivil Disobedience #4というビールで、ラベルには「5つのオーク樽で熟成させた4種類のビールをブレンドして造ったブラックセゾン」とあり、その4種類の中では前出のEverettが最も多く使われているとのこと。チョコレート、レモン、ベリー、といった各種のフレーバーがクリーミーな口当たりの中に全て入っているのが面白い。酸味の効いた黒ビールを飲んだことが無いという人にはこれは衝撃的なビールだろう。それにしても異なるビールのブレンド具合が絶妙で素晴らしい仕上がりを見せていた。
今回私達はヒル・ファームステッドのおいしいビールをこんなにも多くの種類飲む機会に恵まれて本当にラッキーだったと思う。彼らが造るビールはもしかすると今アメリカで一番の人気ビールかもしれない。注目度も相当なものである。生産量も流通量も限られていること、RateBeerなどのビール評価サイトで最高ランクの評価を得ていることなどのおかげで、アメリカ中のビール好きがファームステッドのビールを必死になって探し求めている状況だ。
このような状況を踏まえてヒル・ファームステッドは現在、年間製産量を500キロリットル以上にするための大規模な拡張工事を行いながら、ブルーパブ及びテイスティングルームを新たにブルワリー内に建設している。これらが完成すれば、私達はビールのテイスティングセットを楽しみながら地元の食材を使ったおいしい郷土料理も一緒に楽しむことがきるようになるだろう。しかしシュアン・ヒルはそれ以上に規模を大きくしていく気は全く無いらしい。際限なく拡張していくことはせず、昔から変わらない田舎の風景の中で手造りされるビールにこだわっていきたいという気持ちを持っている。それは少なくとも近い将来にファームステッドのビールが日本に輸入される可能性は薄いということも意味しているので、日本のビールファンにとってはちょっと残念な話でもある。
しかしここは前向きに考えよう。バーモント州は自然の魅力に溢れる素敵なところだ。夏はハイキングや水泳に最適だし、冬にはスキーが楽しめる。新鮮な地元の食材を使った郷土料理も豊富にある。ビールを飲める店が軒を連ねるニューヨークやボストン、モントリオールといった都市からも遠くない距離だ。またバーモント州にはファームステッド以外にもAlchemistやLawson’s Finest Liquidsといった新しくて魅力に溢れたブルワリーがある。今年の夏あたり、バーモント州を訪ねる旅を計画してみてはどうだろう?
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