Third Time’s a Nagisa Charm



温泉から上がって体から立つ湯気が収まらないまま、ブルワリー直営レストランの席に着き、目の前に広がる海を眺める。湯上がりに、失った水分をゆっくりとクラフトビアで補う—。こんな贅沢を味わえるのが、和歌山県白浜町のナギサビールだ。

白浜は日本書紀などにも記載されている、国内でも有数の歴史を持つ温泉地であり、一帯には温泉旅館や日帰り温泉が多く存在している。一方で目の前には、その名の通り白くて細かい粒の砂浜が広がり、マリンリゾートとしても名が知れている。さらに、パンダの飼育と繁殖で世界有数の存在(中国を除いて飼育数、繁殖数ともに世界最多)のアドベンチャーワールドもある。いつ訪れても楽しめる地域に、我々クラフトビアファンにとって最も重要なクラフトビア醸造所、ナギサビールがあるのだ。

ナギサビールの醸造長の眞鍋和矢は、白浜で生まれ育った。1980年代後半、眞鍋が20歳になったころ、当時住んでいた京都のある居酒屋でヱビスビールを初めて飲んだ。ヱビスが「麦芽100%」を売りにして、人気を回復していった頃だ。ほかの大手のビールと比べて濃厚な飲み口に加え、しゃれたネーミングやラベルデザインの高級感という付加価値にも、眞鍋は魅了された。

一方で、眞鍋の祖父は白浜で民宿、父親は理髪店を営んでいたことがあった。いずれも屋号は「ナギサ」である。眞鍋自身もいつか白浜で「ナギサ」という名前で何か事業を興したいと考えていた。

そしてある日、いつものように一杯のヱビスビールを飲み干したとき、「『ナギサビール』を白浜で造ればいいんだ!」と思いついた。だからといってすぐに方法が思いついたわけではなく、そのときは「いつかできたらいいな」という程度の考えだったが、以来、開業資金を貯め始めた。

1994年4月のいわゆる「地ビール規制緩和」の前後、各地で参入を目論む人たちのための勉強会が立ち上がった。眞鍋もその一つに参加し、知見を深めていった。さらに、元首相の細川護熙にも自家醸造解禁の要請を後に送る自家醸造推進連盟(自醸連)が1990年に結成され、1993年12月にチャーリー・パパジアン氏(米国ブルワーズ協会会長)を招聘して講演会を開催するなど、活動を展開していった。実は眞鍋はこの講演会に参加しており、その後の節目でパパジアン氏と再会することになる。

地ビール規制緩和後の1996年4月に、眞鍋は本格的にビール造りを学ぶため、米国視察に出かける。そのなかで、ボストンの醸造設備展示会にてパパジアン氏に再会し、一緒に写真を撮っている(ナギサビールのウェブサイトで見られる)。視察から帰国後、眞鍋はブルワリー開設場所の検討、設備の調達に着手し、免許取得の準備を始める。

同年9月には、現在も一緒にビール造りをしている弟の公二がロサンゼルスでのACA (America Craftbreweries Academy、約2週間の短期セミナー)に出席し、さらに1997年1月からはサンフランシスコ近郊にあるラグニタス醸造所で仕込みの修業をさせてもらい、知識と経験を積み重ねていった。

そして免許を申請し、1997年5月6日に免許を発行された。比較的短期間で免許が下りた秘訣の一つを眞鍋は「醸造設備を、コストを下げるため海外から直接買い付けたから」と振り返る。極力中間マージンを排した調達は、税務署に提出する事業計画の実現性に寄与した。しかし、トラブルもあった。ブローカーを通してタンクを買ったが、船便で届いた一つは、チラー(温度を管理する装置)が壊れ、タンクの底には穴が開いていた。もう一度船便でちゃんとしたものを送ってもらっても、目前に迫った査察に間に合わない。そこでなんとか交渉して空輸してもらい、事なきを得た。工場内でそびえ立ついくつかのタンクを前に「もう忘れましたが、このなかのどれかは空を飛んできたタンクなんですよ」と笑う。

そしていよいよ開業である。最初の2、3カ月は、ペールエール1種のみで展開。その後アメリカンウィートを加えたが、販路は近隣の10ほどの飲食店以外にはなかなか広がらなかった。開業から6カ月後には、運転資金が尽きようとしていた。状況を打破すべくビンの販売を始め、その後しばらくして、和歌山市のビアパブ・ねこまた屋(現在は閉店)が「同じ和歌山だから」と置いてくれるようになった。

眞鍋が造るビールは、一言で言えば「優しさにあふれている」。モルトの甘みがべたつかず、きれいに味蕾に届く。舌触りも滑らかである。眞鍋と話したことがある人なら誰もが「人柄が出ている」と思うだろう。限定で造られたIPAは、最近のトレンドの逆をいく、つまり、ホップのキャラクターがさほど強くないものだった。これはファンには肯定的に受け入れられたように思う。ビアパブで「ナギサらしく優しくておいしい」という声を幾度か聞いた。トレンドに一石を投じるものであったとすら思う。最近では、初めての黒色のビール「アイパッチスタウト」を醸造した。この号が出るころには全国のビアパブで飲むことができるだろう(書いている今はまだ飲めていない、早く飲みたい!)。

そんなナギサビールは、「ビールに強いお店」以外でも広く扱われている。東京・新橋の日本酒を数多くそろえる居酒屋「しんばし光寿」ではもう10年以上前からナギサビールとヱビスビールを扱っていて、眞鍋のビール人生の始まりと今を表しているかのようだ。大阪のラ・トォルトゥーガ(La Tortuga)というフレンチレストランや全国の高級スーパーに卸している卸売業者も、ナギサビールを古くから取り扱っている。

2012年8月、東京・恵比寿で開催されたインターナショナルクラフトビアデイズ(ICBD)に、チャーリー・パパジアン氏が出席。眞鍋は3日目のインターナショナルクラフトビアカンファレンスに出席し、氏と再会した。さらにパパジアン氏は、ICBDの後に関西をめぐり、ナギサビールにも訪問。1993年の初対面のときは、まだ醸造を始めていなかった眞鍋にとって、パパジアン氏はそれこそ見上げるような存在であっただろう。しかし、20年の時を超え、今では一人の醸造責任者として、パパジアン氏と面することになった。

白浜は関西以外ではまだあまり知られていないように思われる。冒頭に挙げたように一年中通して楽しめるところなので、是非ゆっくりと訪れて、眞鍋の「優しさにあふれるビール」を楽しもう! 
www.nagisa.co.jp

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