Schooner EXACT Brewing Company

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シアトルはアメリカを最も端的に象徴している都市の一つであり、ビールの街としても名高い。人口65万余りの規模ながら実に50前後ものブルワリーが存在している。シアトルがあるワシントン州全体では人口約700万で311ものブルワリーがあり、一人あたりのブルワリーの数でアメリカのトップ10に入る。マット・マクラングとヘザー・マクラング夫妻が経営するスクーナー・エグザクト・ブルーイングカンパニーはシアトル屈指のブルワリーの一つで、昨年東京と大阪で開催されたAmerican Craft Beer Experienceで夫妻は「業界で最も微笑ましいカップル」として紹介された。しかしもちろん、シアトルのようなクラフトビール激戦区で成功している彼らが「微笑ましい」以上のものを持っていることは間違いない。

アメリカ国内でもエリアによって人気のビアスタイルは異なるが、太平洋岸北西部ではホップの利いたスタイルがトレンドになっている。ワシントン州のビールの特徴と、スクーナー・エグザクトの方向性について尋ねるとマットは次のように答えてくれた。「北西部はホップ生産地から近いこともあり、IPAが特に人気です。美味しさもますます進化していて、IPA人気は今やクレージーなレベルになっています。しかしワシントン州のビールには取っ付きやすいものが多い。理解に苦しむような難解なビールをつくる人は少ないのです。当社はレギュラービールとして様々なスタイルを手掛けていますが、一番人気はやはりIPAです。IPA以外で注力しているものの一つにサワービールがあります。ケトルサワーやバレルエイジサワーなどです」

彼が言うホップ生産地にはまずヤキマ地方が挙げられる。ワシントン州南部、オレゴン州との州境近く、ヤキマは世界でも有数のホップ生産地であり、アメリカ国産ホップのおよそ80%がここで栽培されている。ホップ生育期の特に霧がかかった日の光景は息をのむ美しさだ。ワシントン州に住む人々が同州でつくられたホッピーなビールを飲むのは地産地消という意味合いも持っている。

一方、マットが言うようにホップの利いたビールだけではなくサワースタイルに対する関心も高まっている。シアトルで20年以上クラフトビールの老舗、ホップヴァインを経営しているボブ・ブレンリン(他にも人気のパブを2店経営)はマットに、スクーナー社のサワービール醸造計画はワシントン州でも最高の内容ではないか、と話したことがあるという。地域のビール事情を熟知した人物から絶賛されたのである。

IPAとサワービールに重きを置く一方で、スクーナー・エグザクトはシアトル西部の歴史にも敬意を払っている。同社の社名は1800年代の中頃に西海岸沿いを航行していた船団の中に実在したスクーナー船(帆船)にちなんでいる。開拓者たちを乗せて西海岸沿いを航行し、ゴールドラッシュ時代にはカナダのユーコン地方へ鉱山労働者を運んだ。1851年11月、同スクーナー船は5つの家族から成るデニー部隊を乗せてピュージェット湾に入港した。彼らはシアトルの町の基礎をつくった人々として知られており、彼らが上陸した地点は、スクーナー社が創業した場所から見下ろせるところにある。

マットがこの物語について語るときの明快な口調は、彼が元々学校の先生だったことを思い起こさせる。なお、妻のヘザーも元教師である。教師を辞めてプロのブルワーに転身することになったきっかけは、アメリカのクラフトビール業界では多くのブルワーに共通のものであろう。それは自家醸造への情熱である。

「私が自家醸造を始めたのは大学生だった1999年のことでした。ある晩、クラスメートの一人にアパートに招かれ、ビールづくりをやりました。こんなにすごいものを見たことがないと思いました。私は当時からビールが好きで、そのクラスメートは私が最初のバッチを仕込むのを手伝ってくれました。その年の夏に結婚予定の友人が4人いたので、その友人たちに手づくりビールとオリジナルのラベルを詰め合わせて結婚祝いのプレゼントをすることにしました。これにはみんなとても喜んでくれました。それから毎年秋にビールを仕込むようになりました。ホッピーホリデイズと名付けたビールを何バッチか仕込み、ボトル詰めしてクリスマス休暇のシーズンに友人や家族にプレゼントしていました」

「やがて私たちはシアトル西部にあった自宅でかなり本格的にビールづくりを行なうようになっていました。当初一緒にやっていたのは婚約者のヘザーと、マーカス・コネリーという友人で、彼は後にビジネスパートナーになりました。キッチンにはビール用の大型容器が6〜7個並んでいました。2005年のクリスマスにヘザーが樽生用のシステムキットをプレゼントしてくれてから樽詰めも出来るようになりました。ヘザーはまた、サム・カラジオーネ(ドッグフィッシュ・ヘッドの創業者兼オーナー)の著書『Brewing Up a Business』も買ってくれましたが、これはプロのブルワーを目指す人のための本でした。そしてこの本を読んでみた後にプロになりたいという気持ちがあれば一緒にやりましょうと彼女は言ってくれました。私はすぐにその本を読み、この道を進んで行こうと決心しました」

「2006年の2月頃、新しいタイプの小さな醸造システムを購入しました。ガレージに設置して使い始めたところ、1回の仕込みで60リットル近い量をつくれるようになりました。自分たちではとても飲みきれない量だったので、友人たちにあげたり売ったりしていました。その新しい醸造システムを使いながらレシピの改良も絶えず行っていました。同じ年の5月、ガレージが手狭になったので小さめの商業スペースを探していたところ、手頃な雑居ビルが見つかったのでそこに入り、物品収納用のロフトも作りました。そのスペースは建物の1階にあり、コンクリートの床が外の下水溝まで延びていたのでまさに私たちにうってつけの物件でした。当時はまだ教職に就いていましたが、6月に入って学校は夏休みに入るところでした。また、私たちはその夏に結婚も控えていました」

「環境も整い、つくるビールの量も相当なものになっていたので、きちんとした形で合法的に販売することにしました。申請書類を提出し、2007年1月に正式に認可がおりました。よく練られたレシピを当時いくつか完成させていたので、それに沿ってつくったビールをシアトル西部にあったビバレッジ・プレイス・パブという店でその1月にお披露目しました。この店は北西部エリアでも最も有名な店の一つです。この時、ケグ6個とカスク1個を用意していましたが2時間半で完売しました。それは3週間分の製造量に当たります。これでこの道を続けていく決心がますます固まりました。お客さんたちは素晴らしい人ばかりで私たちがつくるビールをとても気に入ってくれました。こうして私たちは幸先良いスタートを切ることができました」

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この頃、マットとヘザーの二人は同じようにビールづくりに取り組んでいる仲間たちから色々な意見やアドバイスを受けていた。特にエリオットベイ・ブルーイングの醸造長、ダグ・ハインドマンは夫妻がつくるビールについて、透明感と味わいの華やかさに注意を払うよう助言してくれたという。夫妻はビールにバタースコッチ臭をもたらすダイアセチルにも悩まされていたが、この問題の解決のためにアドバイスしてくれたのはエリシアンを立ち上げた伝説のブルワー、ディック・カントウェルだった。それ以来、今日に至るまでマットはダイアセチルに悩まされたことはないという。同エリアで評価の高いもう一つのブルワリー、ダイヤモンド・ノット社のパット・リングは彼独自のビール酵母を夫妻に提供してくれて、これはスクーナー社の初期のビールづくりに貢献した。

ビールづくりを仕事にするということは普通に会社を経営するのとは全く異なる。しかも教師としての経験はブルワリーの運営に必ずしも役に立ってくれない。最初の頃、彼らはまだ利益を出せる段階にはないということを認識しており、利益の追求に走らなかった。まだまだまともなビジネスにはなっていなかった。夫妻は自分たちの貯金から3万ドルをブルワリーに投資し、小規模生産を続けながら経験を積んでいった。そうしているうちにやがて趣味のレベルから完全にプロのレベルになり、利潤の追求ということを考えなければならない時が来た。2008年、夫妻はビジネスプランを作成。生活のために二人は教職も続けており、マーカスは営業をやっていたが、当時はまだ小型の発酵槽が4つあるだけで、1週間につくれる量はケグ数個分にすぎなかったので規模の拡張が必須だった。彼らは2008年の終わり頃、投資パートナーとなるレイ・スペンサーと出会い、それまでよりずっと大きな10バレル(約1200リットル)規模の醸造設備の組み立てに取り掛かった。工場が集まる地域にも物件を見つけたが、結局、工場よりも小売店が多いエリアに1年もたたないうちに移転することになった。

2009年の秋、いわゆるサブプライムローン問題によって経済崩壊が起きていた。空きビル物件がたくさん出て、レイ・スペンサーのコネにより、シアトル市の南部、プロスポーツの競技場から遠くないとても魅力的なエリアに好物件を見つけることができた。これは同社の歴史のなかでも最高の出来事だったとマットは言う。

「ここは私たちにとって3か所目の場所となりましたが、そこに至るまでの経験は非常に大きな糧となりました。私たちはシアトル市内で当時、試作設備を導入した最初のブルワリーの一つで、本格的なレストランも備えて利益を生み出せるブルワリーになりました。最初のブルワリーもきちんと設計されていましたが、2番目のブルワリーではちょっと違ったデザインを施しました。しかしやや効率が悪いところが気になっていました。3か所目ではデザインとレイアウトを建築士に依頼したのが非常に良かったと思います。実際にこのブルワリーになってから解決できた問題が非常にたくさんあります」

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その中でも重要だったのが料理に関することだった。

「2010年3月からシャッター付きのテイスティングルームを営業していて、その中に素敵なバーコーナーもありました。魅力的なタップルームもありましたが、レストランが完成したのは2012年11月のことでした。レストランがまだ無かった頃気付いたのは、お客さんが来てもビールを1、2杯飲んだら食事は別の店に行ってしまうということでした。金曜日でも夜の8時近くになるとお客さんがいなくなっていました。お客さんに食事もしてもらって最後までゆっくりしてもらうためには何かが必要でした。そこでメニューの作成に取り掛かり、ローカルなブルワリーのなかでもユニークな内容のものを目指しました。バーガー、フライドポテト、ピザなど、どれもビールに合いますがありふれているのも事実です。そこで私たちはガストロパブを目指すこととし、サンドイッチに力を入れることにしました。原材料から見た目まで徹底的にこだわりました。これは他のブルーパブと差別化できた大きなポイントだと思います。当社のレストランで出している食事は見た目に美しく味も良い。有能なシェフにも恵まれたおかげで中身のあるフードプログラムを作ることができました。現在シェフを務めてくれているジョシュア・ベッカムは期待以上の働きを見せ、料理の質をさらに上げてくれました。ビールと食事を組み合わせた独自のペアリングディナーを提供しています。バレンタインデーには7種類のペアリングコースを提案し大好評でした。お客様にこのような経験をして頂けるのは素晴らしいことです」

しかし成功の裏には失敗があるものだ。何か苦労があったか尋ねたところ、マットは次のように答えてくれた。「もちろんです。ありとあらゆる失敗がありました……『失敗から学ぶ』とはまさしくこのことですね。教師時代によく生徒に言っていました。有限会社を設立する際の手続きで失敗をしました。それは、私たちがどのようにして資金調達を申請できるかを定めるものです。経営に関する経験もなければ、事業の成長のために将来を見据える見識もなかったため、成長を制約するような形態で会社を設立してしまいました。私たちは、事業の成長を収益で支えています。しかし、これは成長を見据えた企業にとっては好ましい方法ではないのです」

しかし幸いにも経営はうまくいき、現在日本は、ワシントン州、オレゴン州に次いで、同社第三の市場となっている。昨年、マットとヘザーは、American Craft Beer Experienceに参加するため来日することになり、大喜びしていた。この来日は、同社の将来像を変えたようだ。

「日本では驚きの連続でした。日本に着いた翌日には、お客さんがブルワーに会える昼食会に出席しました。そこで出会った素晴らしい人たちとは次の週に何度も再会しました。お茶会も素晴らしい体験でしたし、デビルクラフトの醸造施設でのイベントにも行きました。クラフトビールに対する皆さんの熱い気持ちには感動を覚えました。あるビールを飲んでその美味しさに感動し、そのビールをつくったブルワーに会って感極まって涙を浮かべている人々を見て大きな衝撃を受けました」

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彼らの再来日はありえるだろうか。

「もちろんです。今年の夏にまた日本に来る計画があります。年に一度は日本に行きたいと思っています」

日本の皆さんもそれを望んでいます。マット&ヘザー、ありがとう! 新しい赤ちゃんの誕生もおめでとうございます!




スクーナー・エグザクトはトッド・スティーブンスが代表を務めるビアキャッツが日本の正規輸入代理店だ。上述のダイヤモンド・ノット社については、今優子率いるエバーグリーンインポートが輸入している。

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