Brimmer Brewing




川崎のブリマー・ブルーイングは比較的新しい醸造所だが、率いているのは、世界で最も名高いクラフトビール醸造所のひとつと深いつながりがあるブルワーだ。しかしスコット・ブリマーは決して自分の過去をひけらかして注目を得ようとはせず、優れたビールをつくり、地元のバーや小売店との関係を築くことに注力している。

川崎(そしてこの場合日本も)は、彼を得られて幸運だ。川崎は長い間、東京と横浜の間に位置する工業色の強い醜い周辺都市として悪く言われていて、市はそのイメージを変えてアピールすべく大変な努力を続けてきた。この街にとって、優れたクラフトビール醸造所は歓迎すべき新しい要素だ。スコットによると、市は彼と妻の事業努力を支援し続けている。また、妻の佳子は起業関連の賞を川崎市から複数受賞し、ブリマー・ブルーイングの成功に寄与し続けている。彼らの勢いが続けば、このブルワリーが地域の誇る拠りどころになっても不思議ではない。

スコットはもちろんこの成功に満足している。醸造所は住宅と工業用の建物が混在する通り沿いにあり、入口近くの角には彼の息子のおもちゃが見えるーーブリマー・ブルーイングは家族経営なのだ。彼にはフルタイムのアシスタント、クリス・マカンバーがいる。ブルワリー裏手のスペースには近い将来タンクの増設も可能だ。スコットの夢は現実になったのだ。しかしこれは、20年前に北カリフォルニアの半田舎町でクラフトビールの世界に一歩を踏み出した時とは、イメージしていた場所が若干異なる。

カリフォルニア州モデスト出身のスコットは、高校卒業を控えたある日、北へ数時間ほどの州立大学チコ校を訪ねた。地元の人々と一晩出歩き彼らに勧められて口にしたビールは、それまでに飲んだどのビールとも違った(そう、彼は未成年ドリンカーだった)。そのビールはシエラネバダのフラッグシップであるペールエールだった。その瞬間スコットは、その街チコにあるシエラネバダ・ブルーイング・カンパニーでいつか働くぞ、と叫んだのだった。

彼は1994年から1997年まで州立大学チコ校に通い、街にあるシエラネバダのパブで皿洗いの職を得る。次にテーブル片付け係になり、そのようなキツい仕事を数年間つづけた後でバーテンダーに昇進する。そこでついに彼の人生が変わり始めた。

バーテンダーとして働いた数年間は、そのパブでよく昼食をとっていた伝説の人、シエラネバダの創業者ケン・グロスマンと会う機会が多々あった。グロスマンはクラフトビールムーブメントのパイオニアでもあり、業界で最も尊敬される存在として広く知られていた。スコットは、グロスマンとの気軽な会話を通して自然とクラフトビールに対する見識と情熱を深めていった。

1990年代の終わりまでにシエラネバダは全国で知られる大きな醸造所になっていた。街の外からツアーの参加者がやってくるので、シエラネバダのスタッフには充分な訓練を積んだツアーガイドもいた。ある時、スコットがまだ皿洗いをしていた頃、ガイドの交代要員として突然呼び出された。事前準備の機会も注意事項も一切与えられていなかったが、スコットはツアー終盤には素晴らしい仕事をしてのけた。いつも人当たりが良いスコットは、その後数年間、ガイドとタップルームの両方に配属された。

そしてスコットは、ふと立ち寄りスコットに人生の目標をたずねたブルーマスター、スティーブ・ドレスラーの目に留まる。

それまで人生の目標など本気で考えたことはなかったというスコットだが、こう答えた。「実はブルワーになりたいのです。ここで多くのことを学びましたし、今では醸造所のメンバーなら誰のことでも良く知っています」

ドレスラーはシエラネバダ社で力を持つ者たちと話し、世界トップレベルの醸造学校カリフォルニア大学デービス校の講座をスコットが受講できるように手配した。シェラネバダは2コース分の費用を負担し、スコットは醸造とパッケージングの資格を得た。彼は受講期間中も、学んだことを仕事で使えるシエラネバダに戻っては仕事を続けた。

「『コース修了時にブルワーの職を与えることができる保証はない』と、スティーブにはいつも言われていました。でも僕は粘り強い性格なので、バーの仕事が休みの日でも醸造所でブルワーたちを手伝いました。恐らく、職を得られる保証がない男としては期待以上の仕事ぶりだったと思います」

当初スコットは研究室での職を提案されたが、あくまで自分が本当に望むものを待つべきだと判断して、辞退した。その後ついに醸造所内のポジションを得る可能性ができ、彼は面接を受けた。面接はグロスマンが仕切った。

スコットはその頃すでに、大学で出会った佳子と結婚していた。何年も前に彼女が交換留学生として来ていた時に知り合ったのだ。スコットの将来の仕事について常に気を使ってきた彼女は、それほど大切な面接にはスーツとネクタイで行くべきだと言った。その効果は?

スコットは笑う。「面接終盤になるとケンが僕をからかい始めました。『ここで私たちと働くことになったら、ネクタイを機械に詰まらせるなよ』」

5年続けたパブ勤務は終わりを迎えたにもかかわらず、醸造所での仕事はすぐに始まらなかった。パブのマネジャーはスコットのような優れたスタッフを失い、タップルームにとっては辛い時期だった。2002年にフルタイム従業員として光り輝く醸造所に足を踏み入れるまで、スコットはさらに4ヶ月も待たねばならなかった。

スコットはまず、200バレルサイズの醸造設備で訓練を受けた。この20分の1以下の川崎の醸造所とはまったく異なる経験だという。

「実は、あの大きなシステムで訓練を受ける方がはるかに簡単です。かなり自動化されていて、ほぼコンピューターで醸造しているようなものだからです。しかしそこでの課題のひとつは、醸造プロセスのうちで異なる段階にある4〜5バッチを毎日一度に扱うことです。例えば、穀物を入れている間に、マッシングも同時進行している。同時にろ過槽から煮沸釜へ移動中のバッチがあり、煮沸中のものがあり、発酵タンクへ移送中のバッチがあり、といった状態です」

スコットによると、醸造学校は基礎知識を得られるので非常に大切だが、仕事を始めてからより多くを学んだという。醸造所では、ブルワーはそれぞれ異なるセオリーを持っていて、そのすべてから得るものがあった。スコットは自身のビールをつくる機会は得られず、日々醸造するビールを上司から指示されていた。ではその4年間は単調だったのでは?

スコットは言う。「いつでも仕事が大好きでした。今もシエラネバダにいた頃のような量を醸造できたらよいのですが。それでも、川崎の醸造システムでも多種多様なビールを手早くつくることができます」

アメリカのクラフトビール界で最も前途有望な職のひとつに就いていながら日本に来た理由、それは基本的に家族の近くに住むためだ。この家族とはもちろん佳子の家族である。スコットの家族は皆カリフォルニアにいて、互いにほど近い距離に住み、助け合っていた。

幸いにもスコットはベアード・ブルーイングのブライアン・ベアードと彼が休暇でアメリカにいる時に知り合っていた。ベアードは、スコットがもし日本に来ることがあれば協力すると約束していた。スコットは短い間ベアードで働き、その間ベアードはスコットの自立を助け、次に佳子の助けで見つけた御殿場高原ビールでフルタイムの職を得た。

シエラネバダはスコットに、日本でうまくいかなかった場合1年間は戻ることができるという、ある種の保険を提供していたが、ここで新しい展開が起こる。彼らは、ノースカロライナ州のアッシュビルに2つ目の醸造所を建設予定であること、アメリカに戻れば仕事があることをスコットに伝えた。御殿場高原での待遇は良かったが、シエラネバダの新しい醸造施設は魅力的だ。このジレンマの中でスコットには新しい考えが生まれた。

「佳子と相談し、言いました。『選択肢は2つ。シエラネバダに戻るか、川崎に引っ越して君の家族の近くに住み、君は僕の醸造所設立を手伝うか』。彼女はこう答えました。『わかった。設備を探して設置して。書類仕事は私が引き受ける』と。こうして始まったのです」

始動してから6ヶ月で2人は会社を設立した。その後さらに数ヶ月をかけて醸造許可を取得するとビールを造り始めた。

「御殿場高原ビールは本当に良くしてくれて、当初の予想よりはるかに長く僕を置いてくれました。僕たちが川崎へ引っ越すとそれからもやっていけるようにと通勤用に新幹線の定期代まで出してくれました。そして、ついに僕が自分たちの醸造所にシフトしてからは、妻と僕は生活のために玄関から玄関へと電話帳の配達をして回りました」

視察に来た税務署員は、夫婦2人だけで何とかやっていこうと格闘しているのを知って驚いた。税務署での書類手続きは膨大な時間がかかると強く非難されるが、彼らは視察の後すぐにブリマー・ブルーイングに醸造を許可した。

設備に関しては、スコットは少し贅沢をした。

「グロスマンとシエラネバダチームは銅が大好きなんです。彼らは非常に優れた銅製の設備を好み、僕も常になんとなく欲しいなあと思っていました。株式会社BETのマルクス・ルツェンスキ氏に相談して、結局、ラフ・インターナショナルの堀輝也氏が、今のシステムを探して、計画・設置するところまで助けてくれました。工事期間中、堀さんはどんな業者でも上手に見つけてくれたので予算をかなり抑えることができました」

川崎市は街に新しいものが増えることを喜び、スコットと佳子がスタートできるように地元の銀行と市で折半してローンを出した。

「この20年ほど川崎市には大きな工業地域という酷いイメージがありましたが、実際は違います。市と銀行の方がビールの試飲にいらした時、こうおっしゃったのです。『ほう、これはここでつくったのですか? とても美味しい!』これは僕たちにとって最高のことでした。彼らは僕たちをとても誇らしく感じていると思います」

ブリマー・ブルーイングには看板ビールがないが、ペールエール、ゴールデンエール、ポーターの3種のスタンダードビールがある。そして常に4種目のビールとして1ケ月に1〜2回代わる限定ビールを提供している。また、ブリマー・ブルーイングはクラフトビールに特化したバーよりもクラフトビールを広めるために一般的なバーに集中して、より多くビールを販売している。

スコットはこう説明する。「僕の目標の1つは、必ずしもクラフトビール主体ではない市場にも到達することです。僕たちの一番の得意先は、ブリマーを地元のビールとして紹介しているデパートなんです。数週間後にそのデパートで樽生を提供する予定ですが、地元の人々と触れあい、クラフトビールに興味を持ってもらいたいです」

スコットはいつか絶対にタップルームを開きたいと言うが、今は「醸造所が先」だ。それまでは、ブリマーの全ラインナップを試飲するなら東京青山にあるブリマービアボックスに行ってみてほしい。醸造所のオープンから1年半後に仕事の仲間同士が出資して立ち上げたもので、船のコンテナを改装(嘘ではない)した店内では、数種の樽生と軽食が本当に手頃な価格で提供されている。

川崎にもビアボックスが点在する日がくるかもしれない。川崎もそう願っているはずだ。

by Ry Beville

www.brimmerbrewing.com




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