Hida Takayama

初めて飛騨高山麦酒の醸造所敷地内に足を踏み入れたときは何だか場違いなところに来たような気がした。醸造所の入り口に向かう道路は狭く両側には草が生い茂っている。町外れから棚田が続く景色の中、曲がりくねった道をここまでやってきた。醸造所入り口の左側には大きな屋根がついた牛舎があり、たくさんの牛が飼われていた。さらに進んだところに会社名のロゴが色鮮やかに掲げてある大きな建物が現れた。

痩せて白髪混じりの醸造技術者、安土則久が入り口で出迎えてくれた後、やや雑然とした感じの事務所に案内してくれた。無口でちょっといかつい感じ、あるいは野伏といったイメージの安土は創業当初のことについてポツリポツリと話し始めた。しゃきしゃきとしゃべるタイプではないが気難しいわけではなく、いたって落ち着いた雰囲気。余計なことはしゃべらない、その朴訥とした話しぶりから質素な農家の生活が偲ばれるようだ。

「もとは普通の畜産農家でしたが何かちょっと違うこともやりたいと思っていた1990年代にビール醸造の規制緩和の話を聞きました。資金的には何とかなりそうなメドがつきましたが、ビール醸造のノウハウは持ち合わせていませんでした。東京農大を出た友人がスリランカ出身のビール醸造技術者を紹介してくれたのですが、彼が発展途上国の人だということがちょっと面白いと思いました」。

ドイツで醸造技術を学んだというスリランカの醸造技師Kolonghapitiya Padmaは1996年に安土が創業するに当たって色々手助けしてくれた。現在飛騨高山麦酒が造っている主なビールの中でもピルスナー、ヴァイツェン、ダークエールなどには創業当時に学んだドイツビールの影響が残っている。その他にスタウト、季節限定のレッドボックなどがあるが、シンハラ語で黒い宝石を意味する「カルミナ」という名の特別限定醸造ビールはバーレイワインに近い逸品で2000年度ワールドビアカップで銀メダルを獲得した。その他、スリランカの公用語であるシンハラ語の名前がついた2種類の季節限定ビールがある。ひとつは赤い宝石を意味する「ラトゥミナ」でアルコール度数8%、程よく苦味の効いたドッペルボックである。もうひとつは赤銅色を意味する「タダラトゥ」でアルコール度数6%、フルーティでモルトの風味が効いたレッドブラウンエールである。

「Padmaは彼が考えたレシピをいくつか教えてくれて、最初の頃は私たち二人でそれらのレシピをああでもない、こうでもない、といじくり回していました。まともなものが出来ず、かなり廃棄処分にしたビールもあります。そんなにひどい出来というわけではなかったと思いますが、そのようなものを製品化して最初から危ない橋を渡る勇気はありませんでした。2000年に初めて銀メダルを受賞してからは大掛かりなレシピの見直しはしていません。また当社はあまり苦味の強いビールは造っていません。当社のビールの特徴は爽やかですっきりした味にあると思います」。

事務所のテーブルの上に雑然と積まれた書類などに混じってこれまで受賞してきた表彰状があるのが目に入ったが、もっと早い時期に受賞した証書はPadmaの写真と共にロビーの壁に飾られてあった。

「Padmaは子供ができて帰国するまでの約7年間、いろいろ手伝ってくれました。もう一人、高橋という醸造技師がいるのですが彼は農大を出た後ここでPadmaから醸造技術を習得しました」。

私たちは飛騨高山麦酒を訪れる前日、タナバタ・ビアフェスタ・トヤマの会場で高橋とも少し話をしていた。飛騨高山麦酒がビアフェスに出品するのは珍しいことである。彼らが目指すものはすでに岐阜の山中にあるあの静かな要塞で完成されているようにも思える。安土自身、それを暗に認めているようだ。

「初めの頃は埼玉や東京でも販促活動を行ったのですが近年はやっていません。現在の我々の年間生産高はだいたい60キロリットルで、その大半は高山で飲まれています」。

飛騨高山麦酒は見学ツアーや試飲コーナーもない、純然たる醸造所である。多くの観光客が訪れる高山でさえ、今後も飛騨高山麦酒の直営ブルーパブが開店することはなさそうだ。歴史情緒あふれるこの地方には現在約12の清酒メーカーが集中し、近隣のレストランには飛騨高山麦酒を置いているところも多い。付近の歴史的建造物も多くの観光客を集めており、毎年行われる高山市のお祭りには何千人もの人たちが訪れる。おいしい地ビールの存在は観光客の誘致にも貢献するし、地ビールはいいお土産にもなる。

また白川郷を訪れる人も多い。白川郷は今でも現役で人が実際に住んでいる合掌造りの集落で知られ、ユネスコの世界遺産にも登録されている。高山駅からバスですぐのところに土産物などを豊富に揃えている高山名物館があり、ここでは冷蔵庫で冷やした飛騨高山麦酒も飲める。

安土は醸造所をちょっと案内してくれた後、私たちを見送ってくれた。ロゴのデザインは彼のアイデアであること、設備の修理も自分でやっていることを聞いていたので、彼の部下が手で牛たちを餌付けしているのもなるほどと思えた。私たちが帰る際、安土は1日の仕事を終えた農夫のようにゆっくりと振り返り、何かを見つめるように木立の方に目をやった。その様子は遠いスリランカの友人のことをしばし思い出しているかのようにも見えた。

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