今年20周年を迎える日本のブルワリーは、伊勢角屋麦酒、スワンレイク、ヤッホーブルーイング、箕面ビールなど、人気、品質共にそうそうたる顔ぶれが並ぶ。1997年天王洲アイル(東京都品川区)に設立されたT.Y.HARBORもまた、そのうちの一つである。近年では、個人のラーメン店と同じくらいの規模で製造と提供を営む、本当に小さなブルーパブが非常に増えている。それらとは対照的に、T.Y.HARBORは現在350席という大きな規模を誇り、ブルーパブというよりはブルワリーレストランと呼ぶ方がふさわしい。
天王洲アイルは、バブル期にホテルやオフィスビルが盛んに建てられ開発された。現在T.Y.HARBORが立っている場所は、もともとは寺田倉庫が所有する倉庫で、当時はそこもビルに建て替えられる予定だった。しかし、計画の見直しがされているうちにバブルが弾け、計画が白紙に戻る。そこで倉庫をそのまま利用して、新しい事業としてレストラン業に挑戦することとなった。ちょうど1994年にいわゆる「地ビール解禁」がなされ、1996年ごろから全国に醸造所が増えていったころである。寺田倉庫は米国西海岸でも事業を展開しており、当時の社長であった寺田保信は、西海岸にあるようなブルーパブをつくってみたかったのだ。こうして天王洲にT.Y.HARBOR BREWERYが誕生し、現在それを運営するTYSONS & COMPANYは、同事業のほか、都内で飲食店を複数店舗展開している。
1997年4月のオープン当初は人手が本当に足りず、寺田家総動員でなんとか回していた。寺田保信の息子・寺田心平は当時大学院生で、アルバイトスタッフとしてホール係になることもあった。大学生時代にカリフォルニア大学サンディエゴ校に留学していたこともあり、クラフトビールの存在は知っていた。「例えばカールストラウスのビールは、当時何度か飲んだことがありました。留学先の大学の学生は、大手メーカーによるビールではなくクラフトビールをよく飲んでいて、彼らと付き合っていくうちに、私も飲むようになったんです。パーティーのときはスーパーマーケットにケグを買いに行って、みんなで飲み干しましたね」
1998年6月、寺田は大学院卒業後、台湾の百貨店で働き始めた。一方、天王洲では、T.Y.HARBORの事業が上手くいっておらず、廃業の危機にまで陥っていた。その立て直しを託せる人物を探しているということで、寺田は翌年の3月に百貨店を辞して、T.Y.HARBORに入社した。アルバイトをしていて、社内の勝手が分かっていたということもある。
実は、寺田の入社の少し前に、マネジメントのテコ入れをするために米国人チームを加入していた。しかし米国人チームと、前から在籍していたチームが、経営の方法をめぐって大げんかを始めてしまったのだ。そのまま放置していたら、本当に会社が崩壊していただろう。「初出勤の日から、『社内で何かまずいことが起きている』と分かりました。潰れそうな会社では、スタッフのモラルが低下するし、自分のことしか考えない人ばかりになります」。当時のT.Y.HARBORは、まさしくそういう状態だったのだ。
(President Shimpei Terada)
T.Y.HARBORのあのにぎわうランチに行ったことがある人には信じられないかもしれないが、当時はランチ営業をしていなかった。現在はかなりの売り上げを出す日曜日を定休日ともしていた。言い換えれば、月曜日から土曜日までディナータイムのみの営業だったのだ。ランチタイムや日曜日の売り上げが見込めない特別な理由があったわけではなく、その方がレストランを回すスタッフがシフト面などで楽だったからである。「うまくビジネスをこなすというより、どれだけ楽をするかという発想でした。天王洲には例えば日本航空やナイキのオフィスがあって昼間人口は3万人もいるにもかかわらず、食べるところが本当に数少なかったのに、です」と、寺田は振り返る。
険悪な雰囲気の社内をどう収めたのか、と寺田に尋ねると、「特別なことはしていません。スタッフ一人ひとりは優秀だと思っていましたので、彼らの潤滑油になるように努めました」と、謙虚な答えが返ってきた。
2000年夏ごろからランチ営業を開始し、社内の雰囲気も経営も上向いていった。そしてその翌年に初めて黒字となった。この時期の地ビール市場は全体的に出荷量がかなり落ちている。T.Y.HARBORも同様に、統計上は2003年を底とする地ビールの低迷に悩まされていた(この低迷は、品質の低い「お土産ビール」を高い価格で販売していたため、消費者が地ビール離れしたことに起因する)。しかしそんな状況の中、事業が黒字になったということは、つまりレストランとしての経営がうまくいき始めた、ということだろう。そしてこのころ、寺田は社長に就任した。
1997年のオープン当時、レストランは約200席だったが、特にテラス席を拡張したことにより、現在では350席まで増えた。まず、飲食店は3年続けば長い方と言われる日本では(それ以上続いているビアパブがたくさんあるのは誇らしいことだ!)、20年続いているレストランそのものがまれだ。さらに、米国で発生したサブプライムローン問題とリーマンショックの影響を受けた2008年を除いては、売り上げは伸び続けている。「みんながやる気を持って会社を良くしていこうと思い続けてきた証拠です」(寺田)
そして、そのやる気を持って会社を良くしたメンバーの一人が、長年ブルーマスター(醸造責任者)を務めている阿部和永である。阿部は、1991年に寺田倉庫に入社し、ブルワリーレストランができる前の倉庫で働いていた。もともとビールが好きで、社内でビールの製造担当が募集されたとき、「人生で自分でビールがつくれる機会は、そうはないだろう」と考え、すぐに手を挙げた。1年目は、サンフランシスコから来ていたコンサルタントの指導のもと、醸造していた。そのコンサルティング会社は、設備導入とトレーニングを行うために1年ほどT.Y.HARBORに滞在していた。その後阿部はブルーマスターに就任し、そこから20年間、彼は腕を磨き続け、日本のクラフトビールコミュニティーではよく知られた存在となっている。
創業時からの銘柄は、ペールエール、アンバーエール、ウィートエール。現在あるほかの銘柄にも言えることだが、過度にホップを利かせることはせず、麦芽の特徴が十分に味わえるようにしている。銘柄としてはほかに、濃色エール(ポーターかスタウト)もあった。最初からビール免許と発泡酒免許を取得したが、66キロリットルつくれるようになるまで数年間かかった(注: 年間最低製造数量について酒税法は、ビール免許は60キロリットル、発泡酒免許は6キロリットルと定めている)。これら両方の免許を持つことにより、レシピの幅が格段に広がる。
一つひとつ味わっていこう。ペールエールはパンのような麦芽の香ばしさがあり、それに呼応した甘味と、同じくらいの強さの苦味が感じられる。何かの特徴が突出していることはない、非常にバランスの良いビールだ。創業当時と比べると、麦芽を高品質なものに変えてきた。
アンバーエールも同様にバランスが良いが、ペールエールよりボディーがやや重い。「納得するまでに時間がかかった銘柄。ベース麦芽を2種類、カラメル麦芽は数種類使っているので、その組み合わせの調整に苦心しました」と阿部。その香ばしさと適度な渋味はウーロン茶を思わせるところがあり、脂っこい料理と一緒に楽しむと、飽きずに食べ続けられるだろう。
ウィートエールはベルギーのホワイトエールを思わせるが、コリアンダーもオレンジの皮も使っておらず、発酵だけでそれらに近い味わいを表現している。ウィートエールにフルーツやスパイスを使わない理由を、阿部は「それらを後付けで入れるのではなく、酵母が醸す香りを楽しんでほしいと思った」と説明する。
季節限定銘柄から定番に昇格したのは、インディアペールエール(IPA)とインペリアルスタウトだ。IPAは、地ビール・クラフトビールのなかでそのスタイルが流行る前からつくり続けてきた。アメリカンIPAであり、アルコール度数は6%で、甘味と苦味のバランスに優れている。穏やかな柑橘類の香りと渋味は、木を思わせ、心安らぐ。「米国の銘柄が多く輸入されるようになり、その中でアンカー社のリバティーエールを飲んで最高に美味しいと思い、IPAをつくり始めました」(阿部)。東京湾の天王洲に碇が下りたのである。
インペリアルスタウトは、このスタイルとしては穏やかな方で、アルコール度数8%を思わせない。香りはコーヒーやチョコレートらしさがいっぱいで、飲めば幸福感にあふれる。さらにホップとローストバーレイからもたらされる苦味の心地よさが後を引く。「インペリアルスタウトを定番にするのは難しいでしょうし、実際に聞いたことがありません。だったらウチがやると。(笑)クラフトビールを初めて飲む人には、すっきりとして飲みやすく、飲んだことがないほど濃い味わいとすっきりとした飲みやすさを両立させています」(阿部)。黒糖を入れることにより、独特の香りがもたらされ、さらにチョコレート麦芽の香ばしさの鋭さを和らげる効果が生じる。なお黒糖はビールの原料として認められている原料だ。
銘柄を増やすごとにタンクも増やしていった。現在は10を数えるまでに直営店も増えていったので、出荷量も増えていき、定番銘柄とともに季節限定銘柄をつくる機会も増えていった。現在の定番のラインナップに固まって7、8年経っている。製造量のほぼ半分を占めるのはペールエールだ。
設備は、発酵タンク4本、貯酒タンク4本、各2000リットルで始まり、2年後に4000リットルを2本増やした。当時の年間製造量は50キロリットルほど。現在タンクは大小含めて26本、年間製造量は220キロリットルほどである。そして9月にブルワリーの隣に新設されたのが、「パイロットブルワリー&ブルワリーショップ」だ。2000リットルのタンク6本と、300リットルの小ロット用のタンクを3本導入し、定番銘柄を超えた実験的なビールやコラボレーションビールの開発も進めていく予定だ。
この新しい設備ではまずセッションIPAがつくられ、11月から提供が始まった。コラボレーションについては、すでにモンドブルワリー(英国・ロンドン)のトム・パーマーとエクストラスペシャルビター(12月下旬提供開始予定)を、11月にはアメリカンクラフトビアエクスペリエンスのために来日していたサウンドブルワリー(米国ワシントン州、本誌第24号参照)のマーク・フッドとベルジャンインペリアルスタウト(2018年1月下旬提供開始予定)を仕込んだ。寺田はこう付け加える。「『11月はカボチャを使ったビール』など、月ごとの限定銘柄も顔ぶれが決まってきていたところなので、これでまた『遊び』の要素を実現できるようになります」
そのカボチャを使ったビールの製造を担当してきたのが木下祐斗である。5年前に同社に入社してホール係となり、3年前からビール製造担当となった。「お客様に『このビールはどうやってつくっているの?』『ホップは何を使っているの?』とよく聞かれました。答えられるようになるために勉強していくうちに、製造への興味が湧いてきたんです。それから社内で『製造チームに入りたい』と言い続けて、3年前に良いタイミングがあり、入ることができました」。これまで木下が手掛けてきた銘柄で最高との評価を受けたものは、バターナッツスパイス、パンプキンエール、スパイスドハニーエールなどで、香辛料を用いた銘柄を専門としてきた彼の手によって、さらに多くの銘柄の誕生が期待できるだろう。
(Kinoshita and Abe)
現在T.Y.HARBORの製造担当は5人。数だけを見れば国内の他のブルワリーに比べて多い部類に入るかもしれないが、「労働環境が整っていてこそ、質の良いビールを出し続けることができる」と阿部は言う。個人の「くそ踏ん張り」だけでは事業としての継続に限界が出てくる。現在多くの業界で言われているように、人材不足となったときに乗り越えるのが困難になってしまう。
2017年5月には、同じく創業20周年を迎えた伊勢角屋麦酒、スワンレイク、箕面ビールを天王洲に招き、それを祝福するイベントを開催した。そこでは、「20周年の機会にブルワリーの原点を振り返る。そしてビールの原点も振り返る」ということで、ホップを使わずに、ヨモギ、セージ、カモミール、ベルガモットを用いたグルートビール(注: 中世ヨーロッパで、ホップが主流となる前、苦味や風味を与えるため、さらに保存性を高めるために薬草を入れてつくられたビール。当時はまだ、今のようにホップが主流ではなかったのだ。)をつくった。今後これらのブルワリーが、30周年、40周年とアニバーサリーを迎えられることを楽しみにしている。
2020年のオリンピック・パラリンピックの開催が近づくにつれて、注目を浴び続ける東京。そのウォーターフロントにあり、国際化が進んでいる羽田空港からも近いT.Y.HARBORもまた、さらに注目されることだろう。そして、これから新しく登場する素晴らしいビールを我々は心待ちにしている。阿部そしてT.Y.チームには、限定醸造を存分に楽しんでもらいたい。きっと良いものができるに違いない。
(熊谷ジンヤ)
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