Ise Kadoya Beer: the Weight of a Legacy

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編集部注:伊勢角屋麦酒は2010年夏号(通巻第3号)で初めて取り上げた。それ以来、彼らも私たちも長い道のりを経てきたので、再訪する価値が十分にあると判断した。




三重県伊勢市で数百年間もの間、地域経済の中にあり続けた。1575年以来、地域の伝統を受け継ぎながら、そこにやって来る旅人をもてなし続けてきた。もちろんこれは、日本でも最も格式が高い(それどころか別格である)神社である伊勢神宮のことではなく、二軒茶屋餅角屋本店のことである。

二軒茶屋餅角屋本店の21代目の社長として、カリスマ性のある鈴木成宗は、日本のクラフトビールの世界ではもちろんのこと、伊勢市でもよく知られた人物である。同社はビールファンにはかなりおなじみの「伊勢角屋麦酒」を醸造する会社である。国際的には、鈴木は同社がつくるビールがビール審査会で受賞を果たし、明るいステージに上がった経験がある。一方で、オーストラリアンインターナショナルビアアワード(AIBA)やグレートアメリカンビアフェスティバル(GABF)での審査員としての活動も続けてきた。父親から確かな企業を受け継ぐ立場にあったのだから、鈴木の成功はかなり約束されていたものである、と言う人がいるかもしれない。しかしそれは真実ではない。

1990年代中旬までずっと、同社の経営は餅と醤油、味噌を中心としていた。鈴木は当時、20代後半で専務を務めており、野望を抱きつつも、少し純真さも持ち合わせていたかもしれない。ビール製造の規制緩和(いわゆる地ビール解禁)が起きた1994年、鈴木は父親に「ブルワリーをつくりたい」と伝えた。本格的な醸造経験はなかったが、海洋生理活性学の学位と、醤油と味噌の製造のための発酵技術に関する知識は持っていた。父親にブルワリーをつくる考えを伝えたとき、父親は「うん、やれば」とあっさりと答えた。

No, not open fermenters for beer, but for soy sauce and miso. No, not open fermenters for beer, but for soy sauce and miso.

「父は私が皆を巻き込もうとしていたプロジェクトについて理解していたとは思いません。小さなビジネスの範ちゅうの何かだと思っていたかもしれません」と鈴木は言う。そのプロジェクトは、若き鈴木が予期していたよりもかなり大きな挑戦であることが判明した。地元の税務署は、醸造の経験がない人物に醸造免許を交付することに前向きではなかった。奇妙と言わざるを得ない法律上では、醸造免許を取得する前に醸造設備をそろえておかなければならなかった。こうした状況において醸造免許を取得するためには、たくさんの調査と資本が明らかに必要であった。さらに税務署は、法律で定められている年間60キロリットルを同社が単独で小売業者に売りきることについて、ほとんど信用していなかった。彼らは、ビールを売る手段を増やすために、ブルワリーでつくったビールを提供するレストランも一緒に持つべきだと鈴木に助言した。そうしたほうが、免許取得の可能性が断然上がると伝えた。

税務署が示したすべての条件を満たした後、伊勢角屋麦酒のブルワリーは1997年4月26日にレストランである麦酒蔵(びやぐら)とともに誕生した。当時の地ビール市場(その土地土地で生産されて、品質よりもお土産になることが重視されたビールがよく売られていたという、短命に終わった傾向)はブームに沸いて、毎年たくさんの観光客を引きつける都市にこのブルワリーはあった。好条件が整っていたわけである。

しかし半年後、地ビールブームは終焉した。「お客さんが全くいなくなってしまい、そこからは毎日が悪夢のようでした。すごくたくさんお金も使ったので、『もし失敗したら家業が終わってしまうかもしれない』と思うと非常に大変でした」。450年前から続いている家業をつぶさないようにするというストレスで、29歳だった鈴木は押しつぶされそうだった。鈴木の父親はビール醸造の世界には疎かったので、与えられる助言はなかった。鈴木が解決方法を探さなくてはならなかった。

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当時のいわゆる地ビールメーカーの多くと違って、高品質な製品をつくることを目指すために、鈴木は最高の品質のビールを目標にすることを決めた。「世界的なビール審査会で優勝して自分たちの品質を知ってもらうことを目標にしました。これが達成できたら、売り上げが大幅に増えると思っていたのです。審査会で結果を決めるのは、当然のことながら、審査員です。だから私も審査員になろうと思いました」。この方法だと、鈴木は市場で最高のビールは何なのかということを肌で感じることができるだろう。1997年に審査員資格を取って、日本地ビール協会主催の審査会で活動を始めた。1999年には初めての国際的な審査活動として、グレートアメリカンビアフェスティバル(GABF)で審査員を務めた。

GABFでは思いがけない幸運があった。ホテルで部屋をほかの審査員と一緒にシェアすることに応じてくれる審査員は、宿泊代が無料になるというルールが適用されていた。懐が寂しかった鈴木は、ためらいもなくこのルームシェアを選んだ。そしてルームメイトになったのが、自家醸造の伝説的な唱道者であり、自家醸造のバイブルと呼ばれる著作のある、フレッド・エッカードだった。驚きつつも、鈴木はエッカードに「あなたのような有名な方がどうしてルームシェアしてるんですか」と聞いた。エッカードは「ビールは一人で楽しむものじゃないからさ」と答えた。滞在中、エッカードは実際、鈴木と一緒に飲みに行った。

毎日審査が終わると、エッカードとヒロ(鈴木についたあだ名)は外出し、一緒にさまざまなビールを飲み、その日の審査の様子について話し合った。「フレッドに『審査会で優勝したビールに匹敵するビールをつくりたい』と伝えると、非常に強く励ましてくれました。そして審査では多くのペールエールを評価することができました。ご存じの通り、GABFは世界レベルのイベントであり、これから努力しなければならないことについて、間近で多くのことを学べました」

鈴木は新たな知見とともに伊勢に戻ると、これからしなければならないことについて、醸造スタッフと長時間の議論をした。そして数多くの技術を試し、醸造するたびに多くの調整をしていった。厳格な工程管理の方法を採用し、データと改善点を注意深く記録していった。細部と工程の改善点に多大な注意を払った結果、2003年のAIBAでペールエールが金賞を得て、国際的な舞台で認知されることについに成功した。

しかし当時、会社には誰かを授賞式に派遣して受賞の祝福の辞を受けるためのお金の余裕がなかった。鈴木は生き生きとして言う。「ブルワリーを始めてから6年後に、初めて優勝することができました。『これから売り上げが伸びていくぞ』と思っていましたが、実際には何も変化がありませんでした。優勝することでお客が自分たちのビールを買ってくれるようになると思っていましたが、その考え方は完全に間違っていました」

鈴木はそのときもまだ若く、知り合いで尊敬されている何人かの実業家に相談をした。その一人で、ティアというレストランチェーンの設立者である元岡健二には、「ビジネスについて全く何も理解していない」と13時間連続で叱られたことがある。鈴木は打ちひしがれつつも、その意見を役立てるために受け入れ、目的意識を新たにして帰った。これが鈴木自身とビール醸造事業の転換点であった。元岡の言が正しいことを受け入れ、ビジネス書を読みまくり、元岡に言われたことと、それに関連することすべてについて調べた。そして会社の問題点を解決する方法を見つけるに至った。

Suzuki paying a visit to Ise Shrine Suzuki paying a visit to Ise Shrine


「あの時、たくさんのことを勉強しました。品質が常に重要であることはもちろんですが、マーケティングも非常に重要です。さまざまなお客がいて、それぞれ異なる好みを持っています。筋金入りのクラフトビールファンは非常に熱心にクラフトビールを求めますが、伊勢にやって来る観光客のほとんどはそうではありません。お土産になるものを探しているのであり、彼らが求めるものに合致する特徴を考えました。私たちが抱えていた問題は、熱心なビール愛好家にも一般的な観光客の両方に訴求するようなビールをつくろうとしていたことであり、それは不可能なことであると理解しました。現実には、誰も満足しないようなビールをつくっていたのです」

2004年には、ビールの製造をビール愛好家向けと観光客向けの二つに分け、これは後に完璧な改革であったと証明された。日々訪れる観光客向けに取っつきやすくて価格も低く抑えた銘柄は、伊勢角屋麦酒のレシピに基づいて委託醸造でつくることにした。自社の醸造スタッフがつくるビールは、「伊勢角屋麦酒」のブランド名で愛好家向けにつくることにした。レシピが二つの異なるターゲット層にそれぞれ正確に合致し、適切なマーケティングを実施したおかげで、2005年に製造量が倍増した。クラフトビールの動きがまだわずかに増えていただけであった2000年代中頃に、まずは外部に委託してつくられたビールの売り上げが大幅に増えた。

委託醸造ビールは、黒米と少量のカスケードホップを用いたアメリカンペールエールである神都麥酒から始まった。次に2007年に生まれた熊野古道麥酒は、ホップの特徴が比較的穏やかな、軽めのブラウンエールであり、これも観光客の間で人気が出た。銘柄名の由来は、三重県や和歌山県にまたがる紀伊山地に古くから続く参詣道で、世界遺産に登録されていることでも知られている。これらの銘柄の成功は、必要であったキャッシュフローを生みだし、品質の高い製品を提供することに特に重点を置いて取り組んだ結果、ビール愛好者向けの伊勢角屋麦酒ブランドの銘柄も年々安定的に成長していった。

もちろん、この成功は一人の人間だけのおかげではない。鈴木は結束力の高いチームをつくり上げた。同社の最初のブルワーであった辻正史は餅の製造から異動させ、研修のためにさまざまなブルワリーに派遣した。チームをつくるべくさらにブルワーを探していると、ブルワリーを始めてから1カ月後に加わることになった中西正和に幸運にも出会った。辻はその後間もなく退職したため中西が製造を受け継いだが、早くも非常に有望であることが分かった。鈴木は「彼はビールづくりに関して天才的と言ってもいいほど素晴らしい感性の持ち主」と称賛して言う。中西が加わったことにより、ビールの品質は改善されて安定していき、国内外から称賛を得るようになった。

鈴木は、着実な成長を数年間続けていった2010年ごろ、中西から醸造の腕前を学び取れ、中西の仕事の一部を任せられるブルワーを探していた。そして予期せず事がうまく運び、出口善一という人物を得た。

当時、出口は家屋の内装材を扱う会社に勤めていたが、仕事に満足できていたわけではなかった。「毎日が同じで退屈な日常業務が続く日々でした。みんなが終業の合図である夕方5時のサイレンが鳴るのを楽しみにしているだけ。そこに生きがいは全く感じられませんでした。家族に給料を持って帰るためだけに働いていたのです。『今後の20年間もここにいなければならないのか』と考えたとき、『自分はもっと何かほかのことができるのでは』と思ったのです」。出口には学校に通う3人の子供がいて、次の仕事が決まらないうちにそのときの職を辞めるのには、経済的なリスクがあった。しかし彼は「自分自身に正直になり、思いきってやってみる必要があった」と振り返る。結局、自分を見つめ直し、退職する決心をした。

Brew staff Kanazawa, Tanimizu, and Deguchi with Suzuki Brew staff Kanazawa, Tanimizu, and Deguchi with Suzuki

幼稚園と中学校で鈴木と同級生だった出口は、鈴木に相談に行っていたが、やがて鈴木の二軒茶屋餅角屋本店に入りたいと思うようになった。しかし友人を雇うことにはちょっとしたためらいがあったことを鈴木は認める。「彼が私のところに来たとき、もうすでに仕事を辞めていて、覚悟しているように思えました。だから彼に機会を与えないわけにはいかないと思い、まずは餅の製造を担当してもらったのですが、素晴らしくよく働いてもらっていました」

出口が餅の製造に1年ほど携わると、鈴木は彼の素晴らしい勤勉ぶりは中西と一緒に仕事をしてもらうのにふさわしいと思うようになった。2010年5月、出口はアシスタントブルワーになった。「彼は想像以上によく働いてくれています」と鈴木は振り返る。

出口は最初からOJT(実務を通じて学ぶ研修方法)でビールづくりを学び、広島にある酒類総合研究所にも派遣されて1カ月間、現地に住み込み、朝から晩まで醸造に携わった。週末に自由にできる時間には、比較的近くにある呉ビール(海軍さんの麦酒)や門司港地ビールを訪ねてより多くのことを吸収した。彼はそのとき久しぶりに、自分は未来を見据えて働いていて、会社は正しい方向に向かっていることを実感した。

2年前、中西がワイマーケットブルーイングの立ち上げに加わるために職を辞し、出口はその高品質で評判を得ていて、非常に尊敬されている醸造長が切り盛りしていたブルワリーの運営を受け継いだ。「中西さんが築いてきた伊勢角の名を落とさないようにしなければと思いました」と出口は振り返る。「どこであっても醸造長が変わると、同じ味わいをつくりつづけているのに『味が変わった』と言われてしまいます。それまで伊勢角のビールが築いてきた信用を落とすことだけはないようにしなければならないと思いました」。これは確かに、大きくのしかかってきたストレスであったが、出口はやってのけた。伊勢角屋麦酒は2015年に、ワールドビアアワードで複数のメダルを受賞した。そのうち、野生酵母で発酵させたベルジャンホワイトエールであるヒメホワイトは、金賞に輝いた。そして今年は、AIBAで三つのメダルを獲得し、米国のワールドビアカップでは同社の素晴らしいセッションペールエールであるゴールデンドラゴンが銅賞を勝ち取った。出口が伊勢角屋麦酒のビールを受賞に値するレベルに保つのに成功しているのは、明らかである。

出口は醸造長としてうらやまれるほどの成功を収めているが、その名声の上にただあぐらをかいているわけではない。彼は日々の仕事からいまだに学びを得ていて、ビールの味・香りを細かく調整する方法を実験し続けている。仕込みごとに小さな改善をすることを努めている。「定番銘柄をつくるにしても、常に改善するようにしないと、消費者には古く映ってしまうようになります。進歩すべき点は常にありますし、そうでなければ、ビールは注目されなくなってしまうでしょう」

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出口はビールのフェスティバルに出掛けて行って、お客と直接話をするのが好きであると自認している。「ブルワリーで地道に働いていることに対する『ご褒美』は、お客に『美味しいですね』『おかわりをちょうだい』と言われることです」。提供したビールに満足してなさそうなお客に接することも、お客の動向を知るための機会になっているという。フェスティバルに行くと、人気があるビールとそうでないビールが直接分かり、お客の顔を見るだけでもたくさんの情報が集められるのだ。

ブルワリーで出口に次ぐ位置にいるのは、2013年にブルワリーに入った金澤春香で、東京農業大学で微生物学を専攻し、ヤッホーブルーイングで働いていた経歴の持ち主である。金澤は研究室での仕事を楽しんでおり、特に花酵母(花から採取できる野生酵母)に情熱を持っている。野生酵母の採取を時折こなしている鈴木は、こうした酵母を醸造に用いる計画を理解して助けてくれる人物を探し続けていた。鈴木は東京でのビールイベントの際に金澤とたまたま会ったとき、何気ないおしゃべりをすることがあった。彼女が大学で醸造を勉強していたということを知っていたので、彼女の後輩で誰か醸造の仕事に興味がある人がいるか聞いてみた。自分にとって絶好の機会と思った金澤は、後輩を紹介するのではなく自ら名乗り出た。金澤が仕事をし続けることによって野生酵母によるビールが進歩していくのが非常に楽しみである。

これまで通り、伊勢角屋麦酒には進行中のプロジェクトがたくさんある。しかし今では鈴木は、どう生き残るかではなく、どうやって経済的に会社を拡大するかということを考えている。新しい工場や木樽熟成、ミード、野生酵母を使ったもっと実験的なビールをつくる話も出てきている。ほかにもまだ表に出せないいくつかの計画もあると鈴木は言う。それらに期待を寄せる一方で、確かなのは、伊勢角屋麦酒は世界最高レベルのブルワリーを目標にし続けることだ。そしてもしかしたら彼らが気付いていないのは、伊勢角屋麦酒がまた、ほかのブルワリーの目標になっているということだ。

This article was published in Japan Beer Times #28 (Autumn 2016) and is among the limited content available online. Order your copy through our online shop or download the digital version from the iTunes store to access the full contents of this issue.