3人の外国人の悪魔——彼らはふざけながら自分たちのことをそう呼ぶ。よだれが出そうなほどおいしそうなディープディッシュピザを熱いオーブンで焼きながら、罪深く、うまいビールでさらに誘惑してくる。彼らが悪魔の儀式を執り行う場所は、地獄への道のりというより、むしろ天国への階段という感じだ。
角と尾を奪われたジョン・チェンバーズ、マイク・グラント、そしてジェーソン・コウラーこそが、デビルクラフトのオーナーであり、3人の悪魔である。関東に住んでいながら神田と浜松町にあるどちらの店舗にも行ったことがない人は、間違いなく損をしている。このシカゴスタイルのディープディッシュピザと最高のクラフトビールメニューは、食通とビールファンのどちらからも、かなりの人気を集めている。ピザとビールは、アメリカではお決まりの組み合わせで、ワインとチーズ、日本酒と刺身といったような感じである。デビルクラフトの成功はその最高のペアリングによるところが大きいが、それは、彼らが当初計画していたものではなかった。
およそ7年前、当時のクラフトビールの会合(ポパイでのイベントかJCBAのフェスティバル)で、常連だったチェンバーズとコウラーは出会った。「お互いに自家醸造の経験があったため意気投合した」と、コウラーは振り返る。彼らはブルワリーを始めるアイディアについてよく話し合った。仕事量や資金を一緒に分担してくれて、同じ考えを持つパートナーがもう一人見つかることを彼らは願っていたが、3人目の士はなかなか現れなかった。
2007年から2008年の間、マイク・グラントはなにかに取り憑かれたかのように、ほとんど毎週自家醸造をしていた。当時でさえ、彼は科学や水質分析にかなり重点を置いており、それぞれのビールスタイルに合わせて水道水を調整していた。これは今でもビールをつくるときには必ず行っている。グラントは自分の作品を審査会に出品することにし、実際にいくつか受賞している。チェンバーズとコウラーはそんなグラントの存在に気づき、探し求めた。ようやく3人目のメンバーを見つけたのだ。
この3人組は、当初は田舎で製造ブルワリーを開設することを計画していたが、予算内でちょうどよいスペースを見つけるのは至極困難であることがわかった。このつまずきは、最終的には不幸中の幸いとなってくれた。手の届く価格で見つけられたのはすべて、より小さめの飲食店スペースであり、小規模な醸造システムを確保しうるものだった。そこで、彼らは方向性を変え、事業モデルを小規模ブルーパブのコンセプトへ焦点を当てることにした。
理由はたくさんあるが、このコンセプトは彼らにとってますます魅力的なものになっていった。田舎では多くの顧客を呼びこむことができないし、3人ともが長時間をかけて通勤しなければならなかった。そのため、彼らは東京の中心部でビジネスを始めることにした。醸造はひとまず保留とし、十分な収入が入ってくるようになるまでは、単純に質の高いクラフトビールを仕入れて売ることにした。
「ベイビーステップ、ベイビーステップ(少しずつ前進すること)」と、グラントは言う。この言葉は彼らの信条だった。3人はそれまで飲食店事業に真剣に関わったことがなかった。本格的な醸造経験もさほどなかった。コウラーは会津麦酒(すでに閉業)で2年間ジョン・シュルツから醸造のコツを学び、シカゴのシーベル醸造学研究所でコースを受講したことはあった。グラントはサンクトガーレンでビン詰め、洗浄、貯蔵室での作業などを、時折ボランティアとして手伝っていた。チェンバーズは自分ひとりでの自家醸造しか経験していなかった。しかし、事業計画に忠実に従い、「千里の道も一歩から」という哲学のもと、初心者にしてはすべてが上手くいった。
一番の驚きは、間違いなくピザが成功したことだ。コウラーは、シーベルで学んでいるときにシカゴスタイルピザの虜になり、それが一度も頭から離れなくなってしまった。6年半前、小さなアパートから一軒家に引っ越した際、彼は自分のピザづくりのスキルを磨くために、わざわざオーブンを海外から輸入した。デビルクラフト神田をオープンしたとき、このオーブンへの投資の見返りは大きかった。
グラントはこう言う。「このディープディッシュがビジネスを軌道に乗せるものになるとは予想してなかった。こんなにもこのピザに需要があるなんて夢にも思っていなかった。私の予想が間違っていてよかったよ」。初めはクラシックスタイルのピザも提供していたが、ディープディッシュスタイルがあまりにも人気だったため、このスタイル一本に絞ることにした。損益分岐点に到達するまでには、開業からおよそ6ヶ月かかると彼らはみていたが、ユニークなスタイルのピザの噂はあっという間に広まり、6ヶ月ではなく、その半分の3ヶ月で損益分岐点に到達した。
もう一つ、実を結ばなかった計画は、神田店の3階に醸造エリアを設けることだった。建物の構造上、これはますます実現不可能に思われた。3階の客席スペースを撤去するのは、事業の観点から考えても筋が通らなかった。特に東京の都心部においては。十分利益が出ていたので、2軒目のロケーションについての話し合いが始まっていた。
2013年の夏、浜松町店がオープンし、同店は開店当初から成功を収めた。資金は神田店の利益と民間投資のみでまかなったため、銀行から借りる必要はなかった。当初の設計では、店舗に醸造施設を設ける予定だったが、またしても客席スペースを優先することとなった。チェンバーズはこの理由をとても合理的に説明する。「客席を取り除くことはお金を捨てるようなものだ。一日にどのくらいの客を収容することができ、その客がどれくらい店にお金を落としてくれるかに注目すると、すぐに納得がいった」。
ほとんど毎晩満席という状態は、飲食店経営者が不満に思うことではない。しかし、彼らは、なんとしてでも醸造を始めたかった。来るべき時期がくるまで、彼らははやる気持ちを抑えて場所を探し続け、念願のブルワリーを開設した。2015年初頭、品川区にプレス機械の販売店を見つけた。両方の店舗からも遠くなく、最適な物件であった。神田店が浜松町店設立の資金を工面したように、浜松町店が新規ブルワリーの資金の大部分をまかなった。またしても銀行に融資の相談に行くことはなかった。
今年の9月初旬、やっとのことで醸造の免許を取得し、彼らはただちにビールづくりに取りかかった。新品の3.5バレルシステムはやる気満々で、初めての樽は、悪魔の集団にふさわしいハロウィンの日にふるまわれた。3人はそれぞれ異なる個人であるにもかかわらず、レシピ作成の過程においても、ほとんど意見は対立することなく、3人組でのビールづくりはうまくいっているようだ。
デビルクラフト神田の開店以来、重要な役割を果たしている4人目の人物がいる。鈴木諒だ。3人の創業者によると、彼は「かけがえのない」メンバーだという。鈴木は、神田店でのホールスタッフから両店舗の店長、そして醸造チームの重要メンバーへと昇進した。現在はほとんどブルワリーで仕事をし、醸造や樽の配送から醸造設備の洗浄まで、なんでも頼れる万能選手だという。
醸造日に訪れると、この男たちは自分たちの誕生日パーティーの真っ只中にいるように思える。明らかに楽しんでいるのだ。約5年越しにようやくビールづくりができるようになったが、どれくらいワクワクしているか尋ねると、グラントは笑ってこう答えた。「ただただ心から楽しんでいる。私たち皆がこの過程を好きだと思う。そして、出来上がったものが人を酔わせ、さらには、自分たちの手づくりのビールを人が楽しむのを見ることができる。もう最高の気分だ」。
今年6月に行われたアメリカンクラフトビアエクスペリエンスの期間中、ヴィクトリーブルーイング(40ページ参照)のビル・コヴァルスキーがデビルクラフト浜松町を訪れ、コラボレーションビールの計画が立てられた。11月末、チェンバーズとコウラーは、ヴィクトリーの日本輸入代理店であるAQベボリューションのアルバートとともに、ヴィクトリーに足を運び、その計画を実行した。彼らは、すべてドイツ産の麦芽を組み合わせて、アルコール度数6%台のレッドインディアペールラガーをつくり上げた。来年の2月下旬か3月上旬には日本に上陸するだろう。
デビルクラフトのビールは、今はまだ神田と浜松町の店でしか試すことができないが、そのうちに事態は変わるだろう。本稿の執筆時点で、第15回目の醸造が行われており、同じものは二つとつくられていない。ビールは主に、カリフォルニアでよく目にするラガーを含めた、米国スタイルが主流だが、シュヴァルツといった欧州スタイルのものもいくつか混ざっている。本誌スタッフを含め、客からの評判は上々だ。
3人の悪魔はそろそろ祝福を受けてもいいころだ。もし、あなたが悪魔に一晩でも魂を売ることになったとしても、私たちはあなたを責めたりしない。
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