戦艦大和の10分の1サイズの模型があることで全国的に知られる呉市。広島から鉄道で30分ほどで、全国から多くの観光客を集めている。この市のビールが呉ビール社による「海軍さんの麦酒」だ。
同社は、呉市の商工会議所が中心となり、約250社の地元企業の出資を得て、1995年7月に設立。呉市の魅力を上げることも運営の目的としてあり、歴代の社長も商工会議所会頭が就任しているという地元財界によるビールだ(似たケースに北海道北見市のオホーツクビールがある)。
今では「海軍さんの麦酒」のブランドでビールファンにも知られているが、当初は公募で得た「クレール」というブランド名兼ブルワリーレストラン名を持っていた。これはフランス語で「明るい(英語のclearに相当)」、「呉にエール」の意味を込めて付けられた。ここで言う「エール」は上面発酵ではなく声援の意味。実際、呉ビールが採用したのはドイツ式のビアスタイルで、ピルスナー(スタイルとしてはジャーマンピルスナー)、へレス、ヴァイツェン、アルトと、下面発酵の銘柄も含んでいた。
ブルワリーレストランは「麦酒館クレール」として1996年5月29日にオープンした。ビール製造については、1年半の間、ドイツから招聘した醸造士に指導してもらった。オープンしてしばらくは店外に行列ができるほど繁盛した。同年11月までの来客数は5万3000人余りという記録が残っている。1996年は20キロリットルの製造量を見込んでいたが、最終的には65キロリットルに修正した。それを支えた一つは、同年8月にオープンした広島市の「ミュンスター」という飲食店で、呉ビールのアルト、ヴァイツェン、ピルスナーを提供した。さらに同社は12月に呉市内に「クレール本通り店」をオープンさせ、季節限定のボックの提供も始めた。
現在、醸造部責任者を務めている佐々木雅治は、1997年にレストランのホールスタッフとして入社した。佐々木はその前に麦酒館クレールでビールを飲んだことがあり、特にピルスナーが気に入った。「自分がそれまでに飲んでいたピルスナーと全く違う香り高さがあったのです」
1年ほど働いたところ、製造の人手が足りなくなり、雑用をすることになった。さらに1年後、当時の製造責任者が辞めることになり、「責任者をやってみないか」と言われ、二つ返事で承諾し、同社4代目の製造責任者となった。「しかしこれが苦境の始まりでした。それまでの経験と引き継ぎで、『ビールのつくり方』は理解していました。しかし『美味しいビールのつくり方』は分からなかったのです」。例えばビールの出来が良くなかったとき、その理由が分からないままでいたのだ。
その後「人手が足りないのでレストランの面倒も見てくれ」と店長も任されてしまう。ブルーパブであればあり得ることかもしれないが、約200席を擁するこのレストランは、片手間でマネジメントするレベルを超えている。結果、「ビールを美味しくつくる」ための勉強の時間がなかなか取れないでいた。さらに接客をすると「ドイツ人がつくっているころの方が美味しかった」とよく言われた。「『実は自分がつくっています』なんて恐ろしくてとても言えませんでした」。佐々木はこのころから続く数年間を「暗黒時代」と呼んでいる。
1990年代後半の地ビールブームはすぐに冷え込み、多くのブルワリーが苦境に立たされた。呉ビールも同じであり、佐々木がブルワリーとレストランの両方を切り盛りしている状態でも、社員を増やすことができなかった。それでも少しずつ品質の向上ができたのは「あまり悩まない性格。目の前のことを少しずつ良くしていった結果」と振り返る。突飛な策に打って出ずに、できることから着実に改善をしていく姿勢に、口から摂取する食品としてのビールをつくる、安全・安心が見える。
佐々木の改善を支えたものに、1998年に立ち上がった中国地ビール協議会がある。これは参加するブルワリー同士で品質の向上を図ることを大きな目的とした会である。ここを通して交流が増えていった大山Gビールの岩田秀樹やビアへるんの矢野学に相談することがあった。地元企業の株主たちは「今度の宴会はクレールでやろう」といった営業面での支援してくれた。
1999年にはビールのブランド名を「海軍さんの麦酒」、レストラン名も「海軍さんの麦酒館」に変更した。同時にボトルの販売も始めた。やはり、ブームの急速な冷え込みに対する策であった。
最初の転機が起きたのは2005年だった。戦艦大和の10分の1サイズの模型を目玉とする「大和ミュージアム」が開館し、呉市への観光客が激増した。すると当然、「地元のビールがあるなら飲んでみたい」という需要に応える形でレストランの来客が増え、経営が上向いた。戦艦大和と「海軍さんの麦酒」のイメージの結び付きは完璧だった。この年の製造量はブーム後初めて60キロリットルを超えた。
2007年ごろからは味の評判が良くなっていった。「それまでももちろん美味しいと言ってくださるお客さんもいらしたのですが、この年になって、美味しいと言ってくれるお客さんの方が多くなった感じです」。その感触は2008年9月のインターナショナルビアカップ(日本地ビール協会主催)でアルトとケルシュが金賞、ピルスナーが銅賞に入ったことでも証明された。ちなみにこの年は、昨年はなんと2万3000人を集めた「地ビールフェスタ in ひろしま」の第1回が開催されている。
その後、コンペでの受賞も重ねつつ、季節限定銘柄を次々と開発していく。まず2009年には、大山Gビールに触発されたバーレイワイン。続いて2010年に、広島の吟醸酵母を使った呉吟醸ビール。2013年には初めてペールエールをつくり、そして2014年には評判の高い「しまのわ」を開発した。
しまのわとは、広島県と愛媛県の島々のつながりの輪を意味する言葉で、ビールは広島の名産のレモンと愛媛の名産のミカンをイメージしてつくられた。しかし、海軍さんの麦酒は発泡酒免許を取得していないので、フルーツをビールづくりに使うことができない。そこでピルスナーをベースに、柑橘系のホップを用いて柑橘類の香りを出した。さらに瀬戸内海の美しい夕陽をイメージしてもらうために、麦芽を4種用いて赤みがかった色に仕上げた。素晴らしいセッションインディアペールラガーである。
2008年から正式な醸造スタッフを務めている増田裕幸は、2003年にアルバイトとして入社した。入った当初はビールづくりに特に興味はなかったそうだが、入社から数年後に飲んだブリュードッグのパンクIPAの美味しさに魅了された。「ビール1杯でこんなに衝撃を与えるなんて、と非常に驚きました。自分もそれができるのではないかと思い始めたのです」。以来、ホップの特徴が良く出たビールの虜になった。限定醸造銘柄にホッピーなビールが多いのは、そのためである。現在、仕込みは増田が主に担当しており、「これからも限定醸造ではホップの利いたビールをつくっていきたいですし、実際に数を増やしていきます」と言う。
海軍さんの麦酒を味わうためには、JR呉駅からほど近い、海軍さんの麦酒館というブルワリーレストランに行くのが確実だ。前述の大和ミュージアムを見学してから行くのがいいだろう。冬季には名物のカキが楽しめるようになった。また広島市内のゴールデンガーデンやラクビアでも海軍さんの麦酒を扱っていることがある。広島県に訪れた際には、ぜひいずれかで味わいたい。
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