ヘレティック・ブルーイング。正統なビール関連書籍の著者が創業者兼ブルーマスターを務めるブルワリーに、ヘレティック(異端)と名付けたと言うのは少し皮肉っぽく聞こえるかもしれない。昔ながらのビール醸造法を伝える世界初のラジオ番組「ジャミール・ショー」を通じて、多くのリスナーを教育してきた彼が、ビールの王道から飛び出したのにはどんな理由があるのだろう。
ジャミールは元々、ビールとは全く関係のない世界へ進むはずだった。儲かるがストレスも多いソフトウェア業界での言わばありふれた生活からビールの世界へ。ちょっと耳を疑いたくなる話だ。1990年代後半のある日、彼が自家製ビールを楽しんでいるところへ隣人がやってきたのだが、もしその出来事が無かったら、彼はずっとアドビシステムズ(有名なコンピュータ・ソフトウェア会社)でお堅い仕事を続けていたかもしれない。
彼の経歴を聞いて最初は驚いたが、やがて興味津々でどんどん引き込まれていった。安価な自家醸造ビールキットでビール造りを始めたが、最初の頃はうまく行かなかった。そこで彼は関連書籍を片っ端から読んで知識を身に付ける一方、当時からアメリカ全土で人気が高かった自家醸造コミュニティーにコンタクトを取って助言や協力を求めた。10年後、そうした情熱とたゆまぬ努力のお陰で、彼はホームブルワー、著者、ポッドキャスターとして名の知れた存在になっていたが、ソフトウェアの仕事も依然として続けていた。
これまで一体どれだけ多くの飲んだくれがビールを片手に壮大な構想を思い描き、好き勝手なことを語ってきたかわからない。数年後のある日、その例にもれず、コロラド州のとある場所でジャミールの友人が彼にけしかけたのだ。「なあ、ジャミール。ブルワリーを始めたらどうだ?」と。その時ジャミールははっきりと答えなかったが、もしそんなことが実現したら一緒にやろうとその男に約束した。
それから数カ月後の2011年、ジャミールは近所のブルワリーの場所を借り、それまでより少し規模を拡大してビール造りを始めた。通常の契約ブルワーと異なり、彼の場合はそのブルワリーの設備を使わせてもらいながら、あくまでも彼独自のビール造りをするという契約だった。彼が造るビールの品質とそれまでに獲得したファンたちのお陰で、彼の成功に時間は掛からなかった。2013年4月、スタートからわずか2年でジャミールは生産規模を拡張し、サンフランシスコ北方、カリフォルニア州フェアフィールドに場所を変えて、そこでヘレティックの専用設備を持つことになった。一緒に仕事をしようと約束した男はどうなったかって?ジャミールはかつての約束通りその男、クリス・ケネディを雇い入れた。ジャミールがブルーマスターを務める一方、クリスは現在ヘッドブルワーとしてレシピの作成と醸造全般に重責を担っている。
ヘレティックは同社が造るビールの需要増加に対応して、ブルワリーに隣接するオフィス街のスペースを買い取り、さらに規模を拡大している。同社のビールの人気の理由は明快だ。品質が申し分なく、ヘレティック(異端)という社名の通り、伝統的なスタイルにとらわれない大胆で独創的なビールだからだ。
同社の代表作「シャロウ・グレイヴ・ポーター」は気品にあふれ、濃厚なチョコレートとコーヒーの香りを放ち、サンフランシスコ・ベイエリアのブルワーたちの評判も高い。しかし、それ以上に私たちが気に入ったのは「グラマリー」と名付けられたセッション・ペールエールで、ライ麦モルト由来のスパイシーなフィニッシュがとても印象的だ。2013年の暮れ近く、サンフランシスコから同社のセールスマン、ノア氏の運転でヘレティックの醸造所を訪れた時、ファーキン(小型の木だる)からサーブされる定番ビールが何種類か完成したばかりだった。それらを飲み比べることが出来たのは貴重な体験であった。この時飲んだ「ファーキン・フライデー」は、今や同社のタップルームで人気の定番ビールとなっている。
バーボン樽熟成の取り組みは同社の最もユニークな特徴の一つだ。ジャミールは醸造所の奥にある古いバーボン樽から、さびの付かない釘を1本抜き、そこからちょろちょろと流れ出るビールをグラスに注いでくれた。40ポンドものブラックベリーを詰め込んだ樽の中を覗かせてもらったが、ビールに酸味をもたらすブレタノマイセスという酵母の作用により、白い縞模様が見えた。その樽から出てきた液体は素晴らしい味だったが、ジャミールの話では完成にはもう少し時間が掛かるということだった。「後どのくらいで完成するのか、私にもわかりません。販売店の人たちも皆、ビールがいつ出来上がるのかを知りたがります。出来た!というサインをビールが送ってきた時、それが出来上がりのタイミングなのです」。
このヘレティックのバーボン樽熟成サワービールが日本に上陸することを願おう。そもそもヘレティックが日本に入ってきたのはどういう経緯だったのか?AQベボリューションのアルバートから熱心に説得され、日本に輸出することを決意したと言うジャミールだが、今では日本を重要なマーケットとして位置付けている。そして、ジャミールと日本との関わりにはさらに深いものがあった。彼の母親はモンゴル系タタール人で、かつて一家はロシア共産主義から逃れて中国に入り、やがて日本に辿り着いた。その後、一家はアメリカ西海岸に行き着いたが、ジャミールの母親だけはしばらく日本に残り、若い頃のほとんどを日本で過ごしたという。ジャミール自身の経歴と同様、一家が辿った過去も想定外のことであっただろう。しかし、想定外の出来事から最高のものが生まれることだってあるのだ。
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