Hop Revolution 2013

The second time is the hardest. If the first time is a hit, there’s just so much pressure to repeat. The second installment of Hop Revolution last December, however, made it look easy, packing Club Diana in Tokyo with energetic guests and setting the stage for festivals of a different kind down the road. The…

Hill Farmstead Brewery: America’s Best Beer?

by Mark Meli Ask craft beer lovers where the best beers in America are made, and nine out of ten will likely give you a location out West. Maybe they’ll mention San Diego, or Portland, or Northern California. Most often they will just say: “The West Coast.” After all, we do say “West Coast IPA”…

Epic Times for Epic Brewing

The appropriately named Epic Brewing has been producing beers of heroic stature in Utah for the last several years. Beer fans in Japan looking for an epic palate adventure need not fly to the Rocky Mountains of the U.S. to get a taste, though; the company’s strong, boldly flavored yet balanced brews are thankfully available…

Kobayashi Tsutomu (Kobatsu) Interview

    English coming soon. ビールと出会ったきっかけを教えてください。 僕は元々ビールには興味がなくて普通の居酒屋のビールしか飲みませんでしたが、海外赴任をきっかけにドイツビールの虜になりました。大学卒業後日立製作所に入社し、半導体の仕事に就いていました。1994年の入社以来国内の仕事を担当していたものの、2001年4月から1年間海外業務研修制度を利用した海外赴任が決まりました。上司は僕をアメリカに派遣させたかったのですが、僕は小さいエリアに多様な言語、文化が混在しているヨーロッパ、特にパリに行きたかった。パリ行きは認められなかったものの、ヨーロッパに行きたいという希望は通り、ドイツはミュンヘンへの赴任が決まりました。ミュンヘンに到着した夜に現地のボスから「これがミュンヘンのビールだ」と勧められたのがヴァイスビアでした。海外研修で一番に覚えたのは仕事ではなくドイツビールの素晴らしさでした。(笑)パリに行っていたら全く違う人生になっていたと思います。 ビール業界ではこばつという名は広く知られていますが、その経緯はどのようなものだったのでしょうか? SNSのドイツビールコミュニティを立ち上げたのが、僕のビール業界でのスタートです。1年間のドイツ研修を終え2002年4月に日本に帰国しましたが、帰国当時は日本で美味しいドイツビールを飲める店を全く知りませんでした。そのときにあるSNSに招待されたのですが、自分の好きなドイツビールのコミュニティは全くなかった。ないなら自分で作ろうということで「Weissbier(ヴァイスビア)」というコミュニティを作りました。そこを情報交換の場として活用していくうち、まずビール好きの人とのつながりが増えていきました。次に、あちこちでオフ会を開催するうちにお店とのパイプもできてきました。さらに、こばつがアクティブに行動しているという噂が広がり、インポーターとのタイアップイベントも企画するようになって、インポーターとのコネクションを構築していきました。 SNSでコミュニティを立ち上げたとき、ゆくゆくは輸入の仕事をするということは考えていましたか? 全く考えていませんでした。Weissbierコミュニティを立ち上げたときは、あくまでも飲み手として、「情報交換の場として機能してくれれば」、それ以上の気持ちはありませんでした。 ビールを仕事にしようと考え始めたのはいつですか? 「ビールを生業にしたい」という気持ちはずっと漠然と持っていました。ただ、高校生の頃から椎間板ヘルニアを患っていたので飲食店の経営は向いていない、と。「じゃあ何ができるか」と考えたときに、自分はドイツビールのことがわかっている。ドイツ人とのビジネスの進め方もわかっている。日本のビアバーとのパイプもある。ビジネスイングリッシュも大丈夫。これらの条件から自分にはビールのインポーターがいいと判断しました。しかし、インポーターになるにはお金がかかる。なかなかなれずにいた頃チャンスが訪れた。僕が入社した日立製作所は幾度の吸収合併に伴い、日立入社当時と比べて人員が3倍近くに増えていたことから早期退職を奨励していたのです。「退職金を資本金として会社を設立することができる、これでインポーターになれる」と思いました。2011年4月、早期退職制度に申し込みました。 会社を設立したのはいつですか? 2011年11月25日です。会社退職から半年以上遊んでいました。(笑) 11月だとその年のオクトーバーフェストに間に合わなかったのでは? その点は最初から間に合わないとわかっていたので、きちんとした醸造所と交渉するために説得力のある資料作りに励む毎日でした。自分のポテンシャルと各業界にパイプを持っているというアピールを盛り込んだプレゼンテーションと自分なりの市場考察やビールに対する想いをつめた交渉資料を作りました。具体的な流れとしては、2011年の夏の終わりにある醸造所との交渉と会社の設立準備を同時並行し、11月にやっと会社を登記できたという次第です。 輸入を決めた醸造所の基準は何だったのでしょうか。 バイエルン州のビールであることです。自分が輸入するなら、かつて自分が住んでおり、自信を持っておすすめできるバイエルン州のビールしか手掛けたくなかったのです。実は、最初に輸入したいと思って交渉を始めたブルワリーはプランクではなく、僕がドイツに住んでいたときに好んで飲んでいたバイエルンの別の醸造所でした。しかし、この醸造所については半年間の交渉の末、2012年3月中旬に交渉決裂の結果に終わりました。交渉が決裂した場合に備えて立てていた第二候補の醸造所にも断られてしまいましたが、その友人がやっている醸造所で日本への輸出に非常に興味を持っている醸造所を紹介してくれました。それがプランクでした。 プランクのことは以前から知っていましたか? いえ、紹介を受けたときは全く知りませんでした。しかし、RateBeerやBeerAdvocateでプランクのビールを検索したら非常に評価が高かった。コンタクトを取ろうと思っていたところ、プランクサイドからメールが入り、すぐにサンプルを空輸してもらいました。元々僕はヴァイスビアやヴァイツェンの輸入をメインに考えていたのですが、試しに取り寄せたラガーもビックリするぐらい美味しかったので、この醸造所を全体的に取り扱おうと決めました。2013年3月下旬、当初輸入を検討していた醸造所との交渉が破談した2週間後にはプランクとの取引が決まっていました。トントン拍子でした。 消費者側もプランクのビールには好反応を示していると思います。 自分で言うのもなんですが、ビール業界では僕のKOBATSUという名前は結構知られています。「あのKOBATSUが輸入するビールだから飲んでみよう」という人は多かったと思う。それが僕にとってはプレッシャーでした。「KOBATSUが輸入したビールなんて、こんなもんかよ」と思われるのは悔しかった。造り手が一生懸命造ったビールは、インポーターである僕も一生懸命輸入しなければならなければと思っています。だから良いビールを良い状態で提供するためにリーファーコンテナでの輸入や倉庫の温度管理など、とにかく温度管理にこだわっています。さらに、もう一つ追い風だったのが、プランクのWorld Beer Cup(WBC)での受賞。僕がプランクと契約が決まったのが2013年3月。発売開始したのが同年7月。その間、WBCでプランクがBest Small-Scale Breweryを受賞しました。WBCで受賞したから輸入を決めたのではない、輸入を決めたビールがチャンピオンになったということですごく幸運でした。 今後2社目の輸入を考えていますか? 考えてはいます。しかし、おかげさまで非常にプランクの需要を頂いており、そのフォローに手一杯というのが実情です。そうは言ってもやはり僕も「色んなビールを紹介したい」という想いがあるので色々動き始めています。 日本にも伝統的なドイツスタイルのビールを醸造しているクラフトブルワリーがたくさんあります。彼らについてはどう思われますか。 そういった醸造所のビールは日常的に飲みますし、非常にリスペクトしています。ベアレン、富士桜高原麦酒、田沢湖ビール、あとは静岡県富士宮市のバイエルンマイスターも好きですね。日本でジャーマンスタイルのビールを造っている醸造所は、ドイツのビール文化を広めてくれる「仲間」「同志」だと思っています。10年程前は「ヴァイツェンってなに?」状態だったのが、今となってはヴァイツェンという言葉は広く広まっているし、ラオホといえば富士桜高原麦酒という共通認識ができています。ただ、日本のクラフトビールに関しては、スタイルは特に気にせず、何でも飲みます。 ドイツにはどれくらいの頻度で行っていますか? 年に1回、行くかどうかですね。日本でのインポーターは僕一人であるため、ドイツにしょっちゅう行って部下に任せるというスタイルをとれないからです。醸造所がピッチャーだとしたら僕の仕事はキャッチャー。自分の仕事は、あくまでも日本国内でドイツビールを広めることだと思っています。 実際に輸入を始めてまだ日も浅いですが、今までに大きな失敗はありましたか? ありました。2012年7月、最初のロットを輸入したときにヴァイツェンの樽が9割以上ダメになっていました。pHメジャーを持ってあちこちお客様の元を廻って確認したのですが、ベルギービールのランビックみたいに酸っぱくなっていてとても飲めたものではありませんでした。 その問題を解消するために採っている解決策はなんでしょう。 まず、樽充塡の際に特殊なスプレーを撒いています。次に、充塡が終わったら樽の口にシールを貼って空気が入らないように密閉します。3つ目に、リーファーコンテナの温度を最初の輸入時の15度から6度にまで下げました。最後に、日本の国内倉庫の温度も下げました。当初の15度〜20度くらいだったのが、今は5度くらいのチルド室で保管しています。現在、問題は起きていません。最初に9割ダメになったときは百万単位で利益が飛びましたが、とてもいい勉強になりました。 「いいビールを広めたい」というゴールの他にも達成したい目標はありますか? う〜ん、ドイツビールがよりもっと身近なものになって欲しいですね。そのためには、KOBATSUトレーディングが単体で頑張るというより、他のドイツビールのインポーターとも力を合わせなくてはいけないと思います。今の日本の輸入ビール市場の現状として、ベルギービールとアメリカのビールが活気づいています。ドイツビールに元気があるのはオクトーバーフェストのときだけ。それが僕は寂しい。さらに悔しいのが、日本人に「ビールと聞いたら連想するものは?」と聞いたら、たくさんの人が「ドイツ」と答える。同様に、「ドイツと聞いたら連想するものは?」と聞いたら、「ソーセージとビール」と答える。それなのに、具体的なドイツビールのブランドを一つでも挙げられる人はほとんどいない。ベルギーの場合、ヒューガルデンやシメイ。アメリカなら、クラフトビールではないけれどもバドワイザーやクアーズ。でもドイツの場合は何も知られていない。もっと日本人にとってドイツビールが身近なものになって欲しいというのが僕の願いであり、目標です。 ありがとうございました。

Fukuoka Reloaded

    English coming soon. 2013年秋号でお伝えした通り、2013年夏号の福岡特集で福岡市でのクラフトビールの歴史に関する重要な情報がいくつか抜け落ちておりました。この点、福岡市民の読者にご指摘を頂き確認したところ、指摘の通りであるとわかりました(何年も前のことなので忘れていたことがいくつかあったのです)。記録を正した上での記事の全容は以下の通りです。 福岡で”クラフトビールの樽”を初めて出した店はどこか? 地ビール解禁後の90年代末には福岡にも多くのマイクロブリュアリーが出来、そこに併設されるレストランなどで地ビールを飲むことが出来た。例えば福岡市内なら、文字通り中洲にあった『中洲ブルワリー(現鹿児島の『城山ブルワリー』)』や海の中道の『海BEビール』などがそうだ。天神の西通りには『銀河高原ビール』直営の地ビールレストランもあった(残念ながらどこも長続きしなかったが)。しかし、その様な所謂ブリューパブ的なお店ではなく”マルチタップを揃えたビアバーでクラフトビールの樽”を福岡で初めて出したのは、2003年の8月に親富幸通りと渡辺通りの間の狭い路地に面したビルの2階に開店した『Beer’s』であろう。20人も入れば満員の狭い店内にも関わらずビールを提供するタップは12もあった。これは当時としては全国でも多い方であろう。開店当初に飲めたクラフトビールは地元福岡の『杉能舎』・『ケーズブルーイングカンパニー』、大分の『ゆふいんビール』、熊本の『火の国ビール』等の九州で造られるものが主だった。『キリン』の「ハートランド」・「ブラウマイスター」、『アサヒ』の「琥珀の時間」と言った国内大手のプレミアムビールやイギリスの『グリーンキング醸造所』の「アボットエール」・「オールド・スペクルドヘン」等の海外のクラフトビールも飲むことが出来た。初めは閑散としていたが日を重ねるごとにお客も増え、それに合わせるようにビールのラインナップも豊富になり提供される国内のクラフトビールも九州から全国へと広がって行った(『ベアード』や『箕面ビール』等)。ハンドポンプで提供される”リアルエール”を福岡で最初に飲めたのもこのお店が初めてであろう(銘柄は恐らく『ヤッホー』の「東京ブラック」)。残念ながら、店は2006年の年末に多くの人に惜しまれながら閉店した。福岡のクラフトビアシーンは一旦ここで終焉を迎えるように見えたが、その火は実はまだ消えていなかった。火を繋いだのは『Beer’s』が閉店する3ヶ月前に別府にオープンした『Paddy(現Beer Paddy Fukuoka)』だ。2006年10月の開店時から『松江地ビール』醸造のオリジナルスタウトを出し、その後も日本のクラフトビールを提供し続けた。そして2012年の10月に現在の場所に移転し、満を持してマルチタップによる国内クラフトビールを提供するお店へと進化した。福岡のクラフトビアシーンを創ったのは『Beer’s』だ、そしてそれを繋いだのは『Paddy』であろう。 原田景太