Miyajima Beer


(photos & text by Brian Kowalczyk)

厳島は特別な場所だ。厳島神社は、富士山に次ぐ日本の象徴的存在として知られ、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。グーグルで「Japan」と検索すると、12世紀に建てられた神道の聖地を彷彿とさせる、入り江に浮かぶ朱色の大鳥居の画像が数多く出てくる。厳島神社は満潮時、社殿が海に浮かんでいるような造りになっている。神道では自然崇拝が根幹にあるので、社殿の後ろに切り立つ弥山と海とを結びつける神聖な存在として設計されている。ここは日本古来の精神性を示す場所であり、古くからの居住者はそのことに深い結びつきを有する。宮島ビールのCEO有本茂樹もその中の一人だ。

有本家は先祖代々、宮島に400年近く居を構えてきた。宮島町(2005年に廿日市市に編入合併された)の境界線に面した海岸線は厳島神社の代名詞となっている。島の北端の地域だけが主な居住区だ。ここに島唯一の醸造所「宮島ビール」がある。3月1日の朝9時、有本と彼のチームに話を聞くため筆者は現地を訪れた。ここでは毎月1日に、無事に1か月過ごせたことへの感謝と、新しい月の家内安全、商売繁盛などを祈念するために厳島神社を参拝する風習がある。神秘的な話とは程遠いが、この神社は町に年間400万人の旅行客が訪れる理由の一つであり、地域経済に活力を与えている。筆者は有本と4人の従業員とともに、厳島神社、粟島神社(醸造などの祭神が祀られている)、そして幸神社(商売繁盛や無病息災などの祭神)を参拝した。宮島ビールの一行は、それぞれの神社でお賽銭を入れて祈念するという。商売を成り立たせてくれる神社に少しのお返しをするのは道理にかなっているように思える。

有本は島内にある旅館の20代目の後継者となるはずだった。しかし、大学卒業後、東京の保険会社で安定した職に就いた彼は、地元に帰るのを渋っていた。そのすぐ前、1982年に彼の父親は宮島町の町長に当選していた。厳島神社は世界遺産認定前で(1996年に登録)、当時の観光産業は現在の規模に比べると微々たるものだった。町の経済は苦境に立たされていたのだ。

1989年、ある一定以上の大きさの木造建築物には客の宿泊を認めない新しい安全基準法が制定され、営業継続には大規模な改修が必要になった。これを受け、有本家は旅館の廃業を余儀なくされた。解体して建て直す選択肢もあったが、不景気のさなか、莫大な費用がかかるためにそれは実現不可能に近いものだった。当時有本は20代半ば、東京の保険会社で仕事を覚えてきたころで、彼の父親も、町長として町の状況を改善するべく全力で取り組んでいた。空き家となった旅館をどうすればよいか、考えが浮かばないまま時が過ぎていた。そして1990年、突然の死によって父親を失った有本に、旅館の行方についての判断が委ねられた。

古い旅館をどうするかの計画や必要な資金なしで島に戻るより、東京(のちに福岡)で保険会社の仕事を続けたほうが有本にとって経済的に良い選択肢だった。1991年、ようやく彼は悩んだ末に、建物を解体して駐車場にすることにした。そうすれば少なくとも収益を得られるからだ。

そして1994年、有本はオーストラリアのシドニーへ赴任することにした。最初の2年半は、宮島に戻ることをあまり考えていなかった。彼はこう話してくれた。「保険外交員の仕事と現地の生活を楽しんでいました。宮島の土地のことはすっかり忘れていたのです」。ところが、シドニー滞在中、日本への旅行をPRするパンフレットに偶然出くわした。パンフレットには、新たに世界文化遺産に登録された厳島神社の、かの有名な大鳥居が載っていたのだ。彼は不意をつかれた。「その時、『自分はこんなにすごいところで育ったんだ!』と思いました。故郷を自慢に思う気持ちも出てきました。日本有数の観光地で生まれ育ったという事実に驚いたのです。故郷が世界中に知られるほど有名な場所になったとは知りませんでした」。その時、彼も気づいていなかったが、のちに経営計画へと変わるアイデアの種が生まれていた。

有本が40代に差しかかったころ、宮島の土地を放置していることに罪悪感を感じ始めた。今や駐車場となってしまった土地に対する祖父母の思いや、旅館を19代続けてきた先代たちの気持ちを考えると心が痛んだ。どうにかしないといけない、とようやく彼は決断した。奇妙なことに、最後に背中を押したのはリーマンショックだった。世界中の企業が大幅な赤字を抱え、その多くがリストラを行った。2009年5月、彼が勤める会社も事業を縮小することになり、彼は解雇された。そのあとどうするか、彼はじっくり時間をかけて考えた。同じ職種の仕事を東京で探すこともできたが、先祖を侮辱しているのではないかという不安な気持ちが彼を悩ませていた。

有本はシドニーで見たパンフレットを思い出し、美しい景色に思いをはせた。すると考えが浮かんできた。あの素晴らしい景色を眺めながら、ゆったりとビールを飲んだらどれだけ良いだろう? 当時、彼の叔父は島内でもっとも大きい宮島グランドホテルを、そして彼の父のいとこも錦水館というホテルを経営していた。有本は彼らにビールを売るアイデアを伝えてみた。すると、潤沢な資金を持つ大企業同士の厳しい競争を前に、自らのホテルの経営に苦労していたことと、広島県の三次ベッケンビールを含む多くの地ビール会社が看板を降ろしていたことを踏まえ、彼らは有本にビールを売ることを諦めて東京で仕事を見つけることをすすめた。

だが有本の決意は固かった。彼は興奮気味に、「それで闘争心に火が付いたのです! なんとか故郷のために何かできないか、と。もし人々がここでビールを飲んだら、島に泊まっていくのではないかと思ったのです。東京や大阪のビール好きなら、ビールのため(そして神社も!)にここに来て、一泊していくかもしれない。そこで私はビール業界に飛び込むことにしました」と話した。考えが甘いように思えるかもしれないが、有本は覚悟を決めていた。

2009年、誰もが反対する中、彼は前に進むことにした。新潟ビールと契約を結び、そこで委託醸造を始めた。当初、「地元」であるはずの宮島ビールが新潟でつくられていることを笑われたりもした。「もう44歳でしたから、そんなこと気にせず、『なにくそ』と思って始めた、というわけです」。2010年3月、駐車場にテントを張って、ビールを売ることにした。最初の2年間は、夏にはかき氷もメニューに加えながら、彼と母親だけで樽詰めビールを売っていた。

島を訪れる観光客は右肩上がりに増え、その年は約320万人が訪れた。だがビールの売上は芳しくなかった。売り上げが落ち込む季節もあり、団体ツアー客は、神社へ行く途中彼のテントを通り過ぎていくだけだった。もし魅力的な建物だったら、もっと集客が見込めるのではないかと彼は考え始めた。2014年、スターバックスコーヒーから思いがけない連絡が来る。彼の土地は厳島神社の名高い鳥居の近くにあり、立地が良いので借りたいという内容だった。有本は同社と協力してビルを建てることにし、その半分を貸し出すことにした。もう半分は、彼のビールスタンド、レストランと、やがてはブルワリーとなる。



2012年、最初の醸造長として、三次ベッケンビール(三次麦酒)から志村智弘が宮島ビールに入社した(現在は退職)。それまではどちらかというとお土産的だったものが、クラフトビールへとシフトしていったのだ。そして2017年11月、ついにスターバックスと宮島ビールが入居したビルがオープンした(土地が世界文化遺産に近接していることから、建築許可が出るまで長引いていた)。醸造免許は2018年1月に取得していたが、設備上の問題で実際に醸造を開始するまでに何か月もかかった。

現在のブルワー、森川達也がクラフトビールの世界に入ったのは比較的最近だ。2017年10月に宮島ビールに入社した森川は、セミナーに通いながら、備後福山ブルーイングカレッジの小畑昌司の下で実践的な経験を積んでいる。ブルワリーの設備はこの二人の手ですべて組み立てた。そして2018年9月にブルワリーでの醸造を開始。小畑のアドバイスやレシピ構築の支援もあり、森川はブルワーとしてたちまち開花した。また、ワーキングホリデーで宮島に1年ほど滞在していたハンガリー人ブルワーのジョージ・ダーンウェイの協力も得られた。宮島ビールのIPA(アルコール度数6.0%、IBU35)は、彼がレシピを考案し、森川と一緒に醸造したビールだ。

IPA以外の定番銘柄には、麦芽の香りと味、そして苦味が際立つレッドエールの「もみじエール(アルコール度数5%、IBU30)」がある。この名前と色は宮島名物のもみじ饅頭に由来している。ヴァイツェン(アルコール度数5.0%、IBU8)はバナナ香が強く、飲み口は軽い。広島県の特産品といえば牡蠣、ということで、燻製した牡蠣と貝殻からつくられたオイスタースタウト(アルコール度数5.0%、IBU33)も是非飲んでおきたい。ほかの定番銘柄にはペールエールとピルスナーがある。さまざまな季節限定ビールもあり、有本の母親が栽培したきんかんを使ったビールも仕込み中で、今号が出るころには販売されているはずだ。また、広島県で収穫されたブラッドオレンジを使ったビールも醸造予定だ。宮島ビールは主に島内、広島市、銀座にある広島県のアンテナショップを含む東京都内の数か所と、広島焼の数店舗で販売されている。

樽詰めビールは島内で製造されているが、缶と瓶ビールは現在も契約ブルワリーでつくられている。今後の目標は、すべてのビールを地元の廿日市市でつくることだ。宮島ビールの小さなブルワリーは、500リットルの醸造システムと8つの500リットルタンクで埋め尽くされている。島の土地代は非常に高く、現在の立地では増築することはできない。有本はすでに、廿日市市内の本土側に今より大きい設備を建てる計画を立てている。実現には数年かかるだろうが、彼の辛抱強さと意思の強さは折り紙付きだ。

今後の展望について尋ねると、広島県出身らしい答えが返ってきた。「『平和のためのビール』をつくりたいです。私の母は被爆者で、被爆当時母は3歳でした。なので、世界平和の名の元に、広島特産の牡蠣を使ったりした特別な缶ビールをつくりたいと考えているのです」。米国とヨーロッパにも輸出して、その利益を関連するチャリティーに寄付するのが彼の目標だ。

宮島を訪れたなら、世界的に有名な神社の写真を撮って、もみじ饅頭を買い、すぐさま本土にフェリーで戻るなんてことのないように。島の魅力はほかにもたくさんある。古代の人々がこの島を祭ってきたのには理由があるのだ。島の景色は息をのむほど美しく、写真を撮るにはうってつけだ。弥山を登るのもその価値が十分にある。登山のあとは宮島ビールに立ち寄って、美味しいビールと料理を味わいながらくつろぐのはいかがだろう。島内の素晴らしい旅館に一泊して旅を完結させるのもよい。有本もきっと喜ぶはずだ。彼は代々続いた旅館の20代目としての務めは果たせなかったが、宮島の観光大使として貢献している。彼の先祖もきっと誇りに思っているだろう。そして筆者が訪れた3月の平日午後に客足が絶えない様子から判断するに、ビールを観光客に売るという彼のアイデアを笑う者はもういない。

Team Miyajima Beer (Arimoto, Oki, Arai, Morikawa, Ota)

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