Beer Roundup (Autumn 2016)

一族における死

日本のクラフトビール運動の開拓者である小田良司が、長年の闘病の末、8月15日に亡くなった。彼は日本地ビール協会(JCBA。後にクラフトビア・アソシエーションとも)の設立者・会長として広く知られていて、同協会は、日本でのビアテイスターやビアジャッジの認定、二つの国際的なビール審査会、日本を含むアジアでのビアフェスティバル、特に一連の「ビアフェス」を監督している。さらに、ビールのジャーナリストであるマイケル・ジャクソンの有名な著書『ビア・コンパニオン』の翻訳・出版をし、そのほか2冊のビール関連の書籍を著している。国際的には、彼は米国のワールドビアカップを含む数多くのビール審査会の審査員を務め、JCBAが世界各地の他のビール団体と連携する上で、大きな役割を果たしていた。

日本のほとんどの人が小規模醸造が何たるかを知る前に(さらには、今日ビールを飲む人の多くが生まれる前に)、小田は小規模醸造の時代が来ることを予見していた。2012年の冬に我々が彼にインタビューしたとき、彼はワインのテイスティングと審査することの人気を目の当たりにしていて、早くも1993年には、日本はそれと似たようなものから恩恵を受けるだろうと考えていた。当時、細川内閣が近々規制緩和を実施すると発表し、それによりクラフトビールの道が開かれた。そして1994年に小規模醸造を可能にする法律が成立し、同年小田はJCBAを設立した。その翌年、最初の「マイクロブルワリー」が開業した。

小田自身は、クラフトビールについてカリフォルニア大学デービス校の教授から学び、1994年にはシーベル醸造学研究所のテイスティングコースに参加した(どちらも米国では醸造に関して超一流の教育機関である)。1995年には、小田は日本で最初のビアテイスターセミナーを開催。その講師は、米国のブルワーズアソシエーションの設立者・前会長であり、全世界のクラフトビール運動の先駆者であったチャーリー・パパジアンだった。小田は亡くなるまでの20年以上もの間、彼との親交を続けていた。1996年には、小田は日本で初めての国際的なビール審査会である「インターナショナル・ビアコンペティション」(現在インターナショナル・ビアカップ)を開催し、ビールの世界での啓発者を他国から日本に招聘した。小田は、彼らが審査したビールを多くの人が試飲できる場があるべきだと感じ、その結果、彼が手掛ける最初のフェスティバルである「ビアフェス」を初めて東京で開催した。それ以来、ビアフェスはJCBAが主宰するその他のフェスティバルとともに、日本およびアジアの6都市以上に開催都市を増やした。



影響力のある人物がしばしばそうであるように、小田の周りにもまた、議論が渦巻いている。彼は、時には無愛想、人使いが荒いと言われることもある。急成長しつつも、依然アイデンティティーを探し求めていた業界において、リーダーシップを発揮して団体を率いるには、強烈な個性が必要だったと言う人もいるだろう。JCBAは非営利団体であるにもかかわらず、小田がクラフトビール業界で金儲けをしたと中傷する人も中にはいる。確かに、彼は同協会およびフェスティバルを運営し、事業展開が好調だった。その結果、安定がもたらされ、成長が可能になった。特に、ビールを寄付として要求するというビアフェスの参加条件に反対する人もいたが、同フェスティバルのウェブサイトには、何年もの間、透明性を持って参加条件が記載されてきた。

小田の友人で親しい仲間が、かつて興味深い話をしてくれたことがある。この話は他の信頼できる情報筋でも裏付けられている。それは、小田は家業(布団の製造・販売)を売却し、その資金を投じてJCBAとビアフェスを立ち上げたという。JCBAが安定し、ビアフェスと資格認定コースが利益を上げるまでの何年もの間、彼は家族の資産を危険にさらしてまで資金を注いだ。小田がJCBA会長としての給料を得ていたのは、それに値するほどの投資を先にしていたからであることを思い出すべきだ。その過程で、ブルワーと消費者はフェスティバルという大きな場でつながることができた。そしてそれらによって、現在、日本各地で開催されている何十ものビアフェスとは違うフェスティバルは、開催のための青写真とひらめきを得ることができた。彼のことを謗る人でも、少なくとも彼が偉大な存在であり、その人脈が日本のクラフトビールに及ぼす影響が確実に肯定的なものであった「先生」のような存在であったことは、認めている。

近年では、彼に近しい同僚が、JCBAが蓄積してきた資金を気前よく使うよう、彼を説得したと言っている。実際、それが彼らの強い希望であれ、彼本人の意思からくるものであれ、彼はビールの審査しもらうためと、知識の共有をするために、彼らを日本に招聘するために、ビール業界のより多くの啓蒙者やスピーカーを日本に招へいするために資金を使い始めた。蓄積してきた資金でもって、小田の後継者となる山本祐輔を専任者として迎え入れることができ、現在は山本が協会を切り盛りしている。JCBAが何年もかけて「準事業」から本物の協会に進化したように、小田もより親しみやすい存在になったと多くの人から言われるようになった。

小田の闘病生活が始まると、彼がフェスティバルに姿を見せることは少なくなり、彼が姿を現さないことが目立った。彼が死んだという噂が飛び交い始めた。数カ月後、彼はフェスティバルに再び現れた。その姿はやつれていたが、時折不敵な笑みを浮かべていた。また、彼は腹部の傷を見せることをためらわなかった。不幸なことに、病が彼をむしばむのを最後まで止めなかった。

小田の姿がなかなか脳裏を離れない。それはあるフェスティバルのことで、彼の友人や仲間に、彼の病気が知らされる直前のことだった。彼は一人で会場の隅に立っていて、フェスティバルの入口に目をやりながら、頬を伝う涙を拭っていた。その光景は見るに耐えなかった(そしておそらく誰も見ていなかった)。なぜなら、いつもの彼の自信に満ちた態度とは対照的だったからだ。彼は、弱々しく、無防備で、何か物思いにふけり、悲しみに包まれているように見えた。今となっては確かめようがないが、おそらく彼は、彼が人生をかけた仕事が終わりを迎えることを悟ったのだろう。願わくば、亡くなる前に、彼が自身の人生を有意義なものだったと結論付けていたと思いたい。

今回のRound Upページは、いつもとは少し違った形式でお届けする。これまでのようなビールニュースは本誌のウェブサイトに掲載し、見出しのみをここで紹介する。ニュースの詳しい内容が気になる方は、オンラインでチェックしよう!

- コエドとヤッホーブルーイングの両社は、輸出専用のビールをつくっている。なぜ輸出だけなんだ? そして、これらに続くのはどのブルワリーだろう?
- 黄桜(京都)が最近、ブルワリーの生産規模を大幅に拡大した。その背後にあるのは何なのだろう?
- 日本の大手ブルワリー2社が、いくつかのアメリカのクラフトブルワリーを買収しようとしているかもしれない。
- クラフトビアマーケットがこの秋、第10店舗目を新規オープンする。あと何店舗できるのだろう? そして、何がこの成功の鍵を握っているのか?
- アンハイザー・ブッシュ・インベブ(バドワイザーのメーカー)とSABミラー、二つの世界最大手ビール会社が合併されることとなった。クラフトビールにとってこれは何を意味するのか?

米国には4千以上ものクラフトブルワリーがあり、この数はいまだに伸び続けている。米国ブルワーズアソシエーションのチーフエコノミストによると、タップルームが今後の鍵を握っているようだ。




This article was published in Japan Beer Times #28 (Autumn 2016) and is among the limited content available online. Order your copy through our online shop or download the digital version from the iTunes store to access the full contents of this issue.